インターネットでラジオ関西の「聖書と福音」No.413 2008年02月24日「罪人の愛と神の愛」

Bible & Gospel

■ No.413  2008年02月24日   「罪人の愛と神の愛」

お早うございます、高原剛一郎です

 この間、私の尊敬する先輩のクリスチャンが、しみじみこう言いました。「高原兄弟、年をとると、毎年確実に一つづつ出来ないことが増えてくる。自分にとって武器だと思えていたことが一つ欠け、自分にとって特技だと思っていたことが二つ欠け、自分にとってこれがあるからこそ私だと思う条件が三つ欠け、ゆっくり弱くされて行くと、何か自分がビルの残がいみたいな気持ちになってくるよ。でも自分が残がいのようになればなるほど、この私のために、この無残な私のために命まで捨ててくださった神の愛が迫ってくるよ。」って言うんです。

 出来ない自分は認めないという見方

 私も少しこの方の気持ちが分かります。私は年間180回くらい講演します。それは私にとって喜びです。神さまの愛を宣べ伝える働きに用いられることは、私にとって誇りであり、特権であり、また力の源です。ですが時々、メッセージが途中でバラバラになる時があるんですね。そして空中分解したメッセージの直後、私は大いに落ち込みます。なぜ落ち込むんでしょう。こういう自分なら自分として認めてやるが、これが出来ない自分は自分として認めない、という見方がどこかにこびり付いているからだと思うんですね。そしてこのような傾向は、私だけではないと思うんです。多く人が、ほれぼれするような自分は認めても、そうでない自分にひどく傷つき、立ち上がることができない方々は少なくないと思うんです。

 いわゆる愛の問題

 一体、このような人間観をどこで、どのようにして身に付けて来てしまったんでしょう。その答えは、いわゆる愛の問題に由来しているんではないか、と私は考えています。私達は、どんな人でも愛されたいと思ってますね。また愛したいと思っています。しかし人間が生まれつき持ってる愛、ポップスやドラマで取り上げられる愛ってどんな愛でしょう。キリストは人間の愛の本質を次のような言葉で語っています。「自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ同じことをしています。」聖書は、自分を愛する者を愛する愛、自分に良いことをしてくれる者に良くする愛を「罪人の愛」だと看破しています。

 自分を喜ばせる愛

 何でこれが罪人の愛なんでしょう。一言で言えば相手を愛する理由が、自分を喜ばせるところにある愛だからです。一般的に男性は美人に弱いですね、そして女性は優しい人にクラクラと来るんじゃありませんか。どうして美人を愛するんでしょう、その美しさが自分を楽しませてくれるからです。どうして優しい人を好きになるんですか、その優しさが自分を喜ばせてくれるからです。ですからその美しさに飽きたら、愛するのを止めます。あるいはもっと美しい人が現れると、心変わりして捨てます。そして乗り換えます。しかし、もっともっともっと美しい人が登場すると、またしても心変わりして相手を捨てます。どうして愛を停止したんでしょう。もはや自分に喜びという利益をもたらさなくなってしまったからです。自分の役に立たないと見るや否や、弊履のように捨ててしまうんです。

 愛は惜しみなく奪う

 どうして優しい人を愛しますか、その優しさが心地よいからですね。ではお付き合いしてみて、その優しさが一時的なものと分かればどうしますか?あるいはもっともっと優しい人が現れたらどうしますか。自分を心地よくする上で、より優れた人が出てきたら、バージョンアップしたパソコンを買い替えるように、相手を変えて行くのでは有りませんか?この人間の愛の正体は、実は自己愛に過ぎないものです。そのことを見抜いた有島武郎という作家は「愛は惜しみなく奪う」と言いました。 それは相手から何らかの価値を奪い取って、自分のものに出来る限りにおいてのみ成立する愛です。そしてその価値が無くなると、止めてしまう愛です。
 実はこれは愛という名に値しない愛なんですね。それはエゴイズムが変装してるだけのものです。自分を喜ばせる為に相手を愛する愛は、所詮自分の為に相手を利用する愛でしかないからです。
 こんな愛しかないこの世の中で成長してきた人間は、愛がはかないものであることを知っています。そのはかない愛を少しでも延命する為に、媚を売り、おもねり、演技し、背伸びしますが長続きしないんです。世の中の悲劇の大半は、この愛の裏切りによって生じているのではないでしょうか。

 たった一人本物の愛

 しかし、こういう不毛の愛しかない世界の中で、たった一人本物の愛の傑出がおられます。 それはイエス・キリストです。聖書の中にこんな言葉があります、「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、『あなたをそしる人たちの謗りは私の上に降りかかった』と書いてあるとおりです。」
 この世界の中で、ただキリストだけが自分自身を喜ばせることをしなかった、って言うんですね。世の中は自分の為に相手を愛する人ばかりです、自分を喜ばせる為に相手を愛する愛ばかりです。しかしキリストは、相手の為に相手を愛する方でした。相手を相手自身の為に愛する方でした。それは相手が自分の期待をいかに深く裏切ったとしても、たじろぐことなく愛する愛でした。相手がしくじろうが、醜く変わり果てようが、卑怯な行動に出ようが、それでもストップしない愛でした。
 自分を侮辱するものの罪を代わりに背負って、神からの裁きを黙々と引き受ける方。こんな愛であなたを愛する存在は、キリスト以外どこにもおられません。あなたの最悪を知った上で、あなたへの愛を止めることが出来ず、十字架にかかって命まで投げ出したイエス様こそ、あなたの救い主です。そしてこのような愛を受けることによって、人は初めて孤独から救い出されて行くのではないでしょうか。

 C・S・ルイスの「ナルニア王国物語」

 C・S・ルイスの「ナルニア王国物語」のシリーズの中に「魔術師のおい」という作品があります。
 登場人物のディゴリーは、キリストのひな型であるライオンのアスランに「母親の病気を治すものを下さい」と訴えるんですね。そして、そう言って彼がアスランの顔を見上げました。こういう文章が続きます。
 「するとキラキラ光る、大粒の涙がライオンの二つの目に浮かんでいました。その涙はディゴリー自身の涙に比べてあまりにも大きく、あまりにもよく光っていましたので、ディゴリーは一瞬『本当はライオンの方が、自分よりずっとお母さんのことで心を痛めてくれているに違いない』と思い込んだくらいでした。するとアスランは言いました『我が子よ、我が子よ、私には分かっている。悲しみというものは偉大なものなのだ。この国ではまだそれを知る者は、君と私しかいない。さあ、私達は互いに力になろう。』」

 キリストの真っすぐな愛

 無償の、一方的な、変わらない完全なる愛を受ける時、その万分の一の愛でキリストを愛し、そしてひいては人を愛する者へと少しずつ変えられて行くのではないでしょうか。どうぞキリストのこの真っすぐな愛を、真っすぐな心で受け止めて下さい。心からお勧めしたいと思います。


オリーブ:新しく生まれる

ローマ人への手紙15:3
 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。