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Bible & Gospel

■ No.420 2008年04月13日「キリストによる人生の戦略」

お早うございます、高原剛一郎です

 今から200年ほど昔、フランスにナポレオンという軍事の天才がいました。彼は数々の戦争に勝利して行きますが、その中で戦争に関する名言を幾つも残しています。その一つにこういうのがあります。「戦術のミスは戦略によって解消できるが、戦略のミスは戦術によってカバーできない」。戦術というのは戦争を行う時の、個別的な小さい作戦のことです。戦略というのは戦争を行うための全体的な計画のことです。戦いで一番大切なのは、大きい戦略目標です。そこを間違ったら、小さい戦いで勝っても意味が無い、最後は敗北だって言うんですね。

 これは人生においても言えることです。どこの学校に進学するか、どこの会社に就職するか、どんな家に住むか、これも皆戦術レベルの話ですね。何のために生きるか、何のために人生を使うか、人生の目的は何か、これは戦略レベルの話です。人生でまず確立すべきことは、正しい戦略を持つっていうことですね。これが定まれば、戦術は見えてくるんです。ところで聖書は、人生を戦いになぞらえて語っている、そんな個所が有るんですね、
 「世に勝つ者とはだれでしょう、イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」イエス・キリストを神の子と信じる者、イエス・キリストをイエス・キリストの主張された通りの方として自分の救い主として信じる者は、人生の勝利者なんだと聖書は語るんですね。

『天災」という落語

 第一にいかに自分の罪が深くて重くても、キリストがその罪を完全に赦してくださったがために、罪に対して勝利者になるんです。ところで私達は人から罪を加えられた時、なかなか赦すことが出来ませんね。いや、親切心から良い忠告をしてくださった、そんな時ですら、図星で痛い時には素直に聞けずにイライラしてしまう時があります。そんな人間が他人を赦そうとする時、大体二つの方向に行くと思います。
 一つ目は天災だと思うことですね。落語にある『天災」というネタがあります。ケンカっ早い男の短気を直すために、石門心学の先生が伝授するものの見方です。例えば丁稚が水まきをしていて、それが自分の着物に掛かった時に、丁稚が引っかけたと思うから腹が立つ。大草原を歩いている最中、急に夕立に遭ったと思いなさい、天災に遭ったと思ったら平気でおれるでしょうと言うんですね。実は、これは日常で良く聞くことなんです。あんな奴、上司だと思うから腹が立つんだ、あいつは人間の形をした動物やと思え。動物が吠えても腹が立たんやろ、だって相手は動物なんだから。そんなのとまともに向き合っても仕方ないよ、というような場合ですね。 世の中で振りかかる一切合切に、特に意味なんか無い。何の意味も無いから気にするな、という考えです。ある意味でこれは誤魔化しなんですが、そういう解決方法も有るには有るんです。
 人によって罪を加えられた時のもう一つの方向は、罪を罪としてまともに受け止めてじっと堪えるという方法です。そうしますと罪を堪えた本体、主体は、最後はつぶれてしまいかねないんですね。

シェークスピアのリヤ王

 シェークスピアの作品の中に、リヤ王というのが有りますね。彼には三人の娘がいました。一人ひとりに、自分をどれだけ愛しているかを言わせ、その愛の言葉に応じて領土を分け前として与えるっていうんです。二人の姉娘は言葉巧みに父の心をくすぐるんですが、誠実だけど父に似て気の短い末娘はすげない返事をしたために、国を追い出されてしまうんです。リヤ王は国を二等分にしてそして上二人の娘に分け、自分は隠居の身になります。そして初めに姉娘の元へ身を寄せると今や権力の無い父親を散々ひどい仕打ちで打ちのめしてしまうんですね。失望したリヤ王は今度は次女の娘の国に行くんですが、彼女は姉に輪をかけてひどい女でした。それで二人の娘の恩知らずな態度にダメージを受けたリヤ王は、何とか平静を保とうと痛ましい努力をします。そして「天の神々よ、どうか私に忍耐力を与えてください、我慢する力を与えてください、気にしない心を与えてください」。しかし押さえに押さえた忍耐も、最後には胸が裂けてダメになり、彼は発狂するんです。
 まともに人の罪を受けると、破滅する。自分に加えられた罪を少しも誤魔化すことなく受け止めて、しかも平静でおれる人間は居ない、ということをシェークスピアは言いたかったんでしょう。しかしキリストは違ったんです。イエス・キリストは十字架にくぎ付けられながら、自分を呪い嘲る人をそれでも愛し続けこう祈りました「父よ、彼らを許してください。彼らは何をしているか自分で分からないのです」。どうしてキリストはそのように心の底から祈ることが出来たんでしょう。十字架にかかりながら、被害者意識がまるで無かったからです。キリストにとって十字架は、不本意に、無理やりにかからせられたものではなく、ご自分の意志でかかりにいったものであったからです。キリストは初めからあなたの罪を解決するために、おこしになったのです。このキリストの身代わりの死のゆえに、人は罪赦されるのです。

死を恐れる必要がない

 第二にキリストを信じる者はキリストの復活のゆえに、死を恐れる必要がなくなったっというんです。私の知るあるクリスチャンのご夫婦は、ご主人が末期のガンです。しかし命に限りが有ることを宣告されても、少しも怯むことなく、体や心を病む人々を慰め励まし、毎日をそれは忙しく活動しておられる方です。彼らにとって死は座って待つものではなく、こちらから立ち向かって行くものなのです。しかもそのように死を飲んでかかっている中で、腫瘍マーカーの値がメキメキ下がって行くんですね。死を思って何も出来なくなってしまうのではなく、人生をより攻めの姿勢で進んで行かれるのは、死んで終わりではなく永遠の命と天国を頂けてる、ということを知っているからです。

祝福のプランが待っている

 第三にキリストを信じる者には、神が用意された全ての祝福のプランが待っているって言うんですね。この希望の予感のゆえに、この世においてもクリスチャンは勝利者となるのです。
 私の子供たちがまだ小学生だった頃の話です。夏休みも終わりにさしかかった時、友人から遊園地のタダ券を貰いました。それで私は息子に言ったんです「もし8月30日までに全ての宿題が終わってるなら、翌日8月31日、家族皆で遊園地に行こう。でも8月30日までに終わっていないんだったら行かないよ」。子供たちは目をキラキラ輝かせながら「ヤッターッ」と歓声を上げたんですね、実はこの8月31日を、一番楽しみにしていたのは私だと思います。と言いますのは、私はジェットコースターが大好きなんです。それに子供たちが生き生きしている様子を見るのが何よりも好きなのです。それで8月29日になって「できたかい?」ときくと、「できた」と言うではありませんか。ところが翌日8月30日になると、鞄の奥に入っていた分厚い宿題の教材が1冊出てきてしまったのです。それは1日かけても、とても終えることのできない量でした。結局貰った無料チケットは無駄になりました。行かなかったからです。約束した以上、遊園地に行く訳にはいきませんでしたので、取り止めたんですね。それは子供たちにとってガッカリすることでしたが、私にとってもとてもとても残念なこと、口惜しいことでした。せっかく用意していた楽しいプランが使えなかったからです。
 神様は私達のために素晴らしいプランをお持ちです。しかしそのプランは人間の罪のゆえに、渡すことが出来ないままになっていました。しかし今やキリストを信じ、罪赦されるがゆえにもう一度そのプランを味わうことができるのです。どうすれば良いでしょう。イエスを神の子、救い主として信じることです。どうぞあなたも世に勝つ勝利者となってください。




新約聖書 第1ヨハネの手紙5:5
 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。