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Bible & Gospel

No.436 2008年08月03日「キリストの愛に駆り立てられて」

お早うございます、高原剛一郎です

 さて人間の体温と病気の関係について研究している方に、ゴードン・ラフというドクターがいます。彼によると体温が39度に上がると、免疫システムの要であるT細胞が約20倍に増えるというんですね。さらに40度になるとウイルス撃退の主力、インターフェロンの働きが3倍になるというんです。ですから安易に熱冷ましを飲むと、かえって風邪の治りを悪くすることがあるんですね。体温は高い目の方が人間には良いそうです。だからといって一年中風邪を引いているわけにはいきませんね。どうすればよいでしょう。心から燃えるような生き方をすると病気もかかりにくくなるんですね。

 パウロという人

 今日は、感動して生きた一人のクリスチャンを紹介したいと思います。その人はパウロという人です。
 彼はこういっています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
 パウロという人は、キリストに愛されているという感動に駆り立てられて、人生を突っ走っていた人です。それはどんな愛なんでしょう。私を救うために自分の身を投げ出して、かばい、赦し、執り成し、永遠の命を与える愛です。

 遠藤周作のお馬鹿さん

 ところで、遠藤周作の作品に「お馬鹿さん」というのがあります。これは新聞連載小説でしたが、遠藤によるイエス・キリスト伝です。

 ごく平凡なサラリーマン桧垣(保名)隆盛のところにペンフレンドがフランスからやってくることになるんです。何でも彼は英雄ナポレオンの子孫なんですね。それでどんな貴族がやってくるのかと港で待っていましたら、ボロをまとった風采のあがらない男が降りてくる。ずいぶんくたびれてるのは、船底の荷物の隙間においてもらって、日本にやって来たというんです。キリストは神の御子であり、人としてはイスラエルの王様、ダビデの直系でしたが、この世に生まれたときには、馬小屋の飼い葉桶であった、ということを連想させるんですね。

 ガストンとイエス・キリスト

 ところで、このペンフレンド、ガストンという人物は、桧垣(保名)家にホームステイしますが、観光とか料理とかそういうことには一切関心を示さないんです。ふらっと散歩に出て、年老いた捨て犬を拾ってきて、かわいがるんですね。「一体この人、何をしにきたんだろう」と思っていると、突然家を出たいといって、あの老犬と一緒に夜の町に入っていくんです。
 夜の町には飲んだくれやチンピラやくざや、都会の闇が渦巻いているんですが、ガストンはそこでさんざんひどい目に遭います。しかし、人なつっこさが全身からにじみ出ているので、不思議に人はガストンが好きになってしまうんですね。
 ある時、彼は結核に冒された殺し屋のやくざ、遠藤という人物と出会います。実はこの人物は復讐心に燃える人です。実のお兄さんが敗戦時、外地にいたとき、上官にはめられて、すべての罪をかぶせられて、処刑されてしまうんですね。遠藤の目的は一つ、そのときの上官小林を見つけ出して自分の手でとどめを刺す。敵討ちをするという、そのことを自分の一生の目的にしていたんです。しかし、ガストンはこの復讐を何とかやめさせようと遠藤につきまといます。

 ノン、ノン、遠藤さん私のお願い

 とうとうその日がやってきました。遠藤が宿敵小林を見つけ出し、死闘が繰り広げられます。その現場にやってきたガストンは、傷を負った遠藤に、小林のシャベルが思い切り振り下ろされる瞬間、体を滑り込ませて、遠藤を覆うんです。そのシャベルはざっくりガストンに突き刺さります。ガストンは息も絶え絶えの中で、最後の力を振り絞って、遠藤にこう言うんですね。「ノン、ノン、遠藤さん私のお願い、私のお願い。」そして、遠藤に復讐を断念させ遠藤の体に両手をおいて息絶えるんです。ガストンは町の嫌われ者、社会のクズ扱いされていた遠藤のために、自分の命を投げ出し、身代わりの死を遂げました。このガストンのことを作者は「お馬鹿さん」と名付けたのです。なぜでしょう。何の見返りもなく、一つしかない命を投げ出す生き方は、馬鹿な生き方であるからです。損得で判断するなら、こんなに馬鹿な生き方はありません。
 しかし、愛はいつも損得を度外視するんです。ガストンが体を張って遠藤をかばったように、キリストはご自分の体を十字架に磔にされながら、あなたのために祈ってくださいました。父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。その祈りが「紛れもなく自分のためだったのだ。」と聞いていただきたいのです。

 ところで、イエス・キリストは決して弱々しいお馬鹿さんではありません。なぜなら十字架の上で死なれて三日目に、死を突き破ってよみがえられた方だからです。この方、イエス・キリストは、今も生きて、あなたが立ち返ってくるのをお待ちになっている救い主です。

 アフリカを愛したリビングストン

 私の幼い頃からあこがれている人物の一人は、リビングストンという人です。彼はキリストの福音をひっさげてイギリスからアフリカの奥地に分け入りました。彼はアフリカに移住し、ついに一生母国に戻りませんでした。左腕をライオンにかまれて失いました。腕一本なくすということは、人一倍つらいことであったに違いないでしょう。しかし、それでもアフリカから去ろうとしなかったのです。アフリカの人たちを愛していたからです。リビングストンはアフリカを愛していたので、「私のハートはアフリカにある」と言い続けていました。
 ある日のこと彼が伝道したアフリカ人クリスチャンによって彼の遺体が発見されました。リビングストンは小屋の中でベッドで跪いて祈ったままの姿勢で死んでいたのです。すぐに彼の死はイギリスに電報で知らされました。リビングストンはアフリカを愛していたので、そのままこの地で埋葬しますと打電されたのです。しかし、イギリスの権威者たちは返信しました。彼はイギリスの英雄だから本国に戻すように、モザンビークの海岸まで彼の遺体を運びなさい。そうすればそこからイギリスへは船で運ぶから……。

 リビングストンの心はアフリカに

 アフリカのクリスチャンたちはこの無茶な要求を受け入れて、300キロの道のりを歩いて海岸まで、リビングストンの遺体を運んだのです。3週間経ってようやくイギリスの船が到着しました。そして、その遺体が船に運ばれる前の夜、二人のアフリカ人が、棺桶のところまで忍び込んだのです。そうして、ふたをこじ開け、ナイフでリビングストンの心臓を取り出したのです。それを袋に入れて、アフリカ人たちはリビングストンが愛した場所へ持ち帰ったのです。
 今、ロンドンのウエストミンスター教会の墓地の中には、リビングストンの立派な石造りの墓があります。しかし、もう一つ、アフリカのマガモイヤーという小さな村にも、小さい板の立った墓があります。そこにはこう書かれてあります。「この木の根元には、リビングストンの心臓が埋められている。彼のハートは私たちとともにある。私たちとずっとともにある。」
 なぜ彼らはそんなことをしたのでしょう。リビングストンの心が愛したところに、彼の心臓があるべきだと考えたのです。

 キリストの心はあなたに

 キリストは復活して今天にいます。しかし、キリストの心はこの地上にあるのです。なぜなら、キリストが命を投げ出してまで愛し、購い取った人々がまだ地上にいるからです。
 あなたはこのキリストの愛を受け取りましたか。どうぞ、パウロのように「私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じます。」と決心し、告白なさってください。心からおすすめしたいと思います。



国分友里恵:私を愛して
新約聖書 ガラテヤ人への手紙2:20
 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。