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Bible & Gospel

No.444 2008年09月28日「父のみもとに帰る道イエス・キリスト」

お早うございます、高原剛一郎です

 先日私は、10才年上の友人と10年ぶりに再会し、嬉しいニュースを聞きました。ようやくイエス・キリストを信じる決心がついたって言うんですね。長年祈ってきた人でしたので、私としても喜びでいっぱいです。その時彼がこうも語ったんです。「あと10年早く決心していたら、自分の人生はもっと変わっていたのになあ。出来れば10年前に戻ってやり直したいなあ」

未来を作り直せる人生

 彼がそう言うのを聞きながら、私は別のことを考えていました。今の私は10年後の私を基準に見たならば、10年前に戻った人間じゃないか。20年後の私を基準に見るなら、20年前に戻った人間じゃないか。50年後の私を基準に見るなら、50年前に戻った人間じゃないか。言うなれば、今の私は、未来を作り直せる人生を頂いているのではないか。私の前には未来をいかようにも変え得る可能性があるんじゃないか。まあ、そう思いますと興奮してきたんですね。良いことを始めるのに遅すぎると言うことはありません。今からでも間に合うのです。では、最も良いこととは何でしょう。それは、イエス・キリストによって自分の造り主に立ち返るということなのです。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです

 キリストはこうおっしゃいました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
 父というのはあなたを造られた作者、天地万物の創造主のことです。キリストという御方につながってない人は、誰一人父のもとにはいないとイエス・キリストはおっしゃったんです。そしてこの人類の創造主のみもとにいないと言うこと、言いかえれば、神から遠く離れて生きていると言うこと、神様との関係を絶って生きていると言うことを、聖書は罪と呼んでいるんですね。なぜなら、神との関係を切ってしまったことが、全ての混乱の原因であるからなんです。

犯罪を抑える三つの力

 私は以前、少年犯罪の弁護士をしていた方から、こんなお話を聞いたことがあります。少年が犯罪に走ろうとするとき、それを抑える力が三つあると言うんですね。

羞恥心

 第一は、羞恥心です。恥ずかしいなあって感じるそう言う気持ち、そんな心です。それがばれてしまったときの社会の目、担任の先生の目、クラブのコーチの目、友達の目を気にして、やっぱり止めておこうと思うわけですね。

罰への恐れ

 第二は、罰への恐れです。犯罪の抑止力の一つは、罰です。罰のために犯罪は、採算が取れないと考えるようになります。人間はこの罰に反応するんですね。
 実は、近年著しく改善されている犯罪があるんです。それは、飲酒運転なんです。今、日本社会では、酒飲み運転が激減しているんですね。それで交通事故死が、54年ぶりに6000人を切っています。そしてこの傾向は、まだまだ続いているんですね。つい数年前まで、年間一万人以上が尊い命を失ってきたのに、今や半分に減ろうとしているんです。それは飲酒運転が劇的に減っているからです。
 では、何故減ったんでしょう。ズバリ罰を重くしたからなんです。そして今月又、一段と厳罰化が進んだんですね。お酒に酔ったドライバーの運転する車に、3人の人が乗った場合、その3人には一人づつ百万円の罰金が科せられることになりました。さらにその人にお酒を出した店にも罰金が百万円科せられます。もちろん、ドライバー本人にもです。罰を重くするレ場するほど、酒飲み運転は、見事に減少する一報なんですね。人は罰に反応するんです。

絆による抑止力

 しかし、第三の抑止力があるんです。それは、絆による抑止力です。少年の場合であるなら、両親との絆なんです。悪い友達から、犯罪の誘いが来たとき、最も有効な撃退力は、この両親との愛の関係なんです。もし、自分が万引きしたことがお父さんに分かったら、お父さんどんなに悲しむだろう。父の悲しむ姿がふっと目の前に出てくる。もしわたしがひとをきずつけたり、ものをこわしたりしたら、おかあさんどんなにくるしむだろう。お母さんがぽろぽろ泣いている姿がふっと出てくる。この両親への気遣いは、どんな罰よりも、人を犯罪へ思い留まらせる力になるっていうんです。但し、絆がある場合だけです。元々絆がない場合はどうなるでしょう。自分がどんなにひどいことをしても、自分のために泣いてくれる人が、一人もいないような場合は、抑止力がないのです。或いは、両親との関係が、元々険悪であるような場合、両親に対して復讐するために、わざと犯罪行為に走ることもあり得るのです。

根本原因は神との絆を自ら切っていること

 ところで、人間は、どうしてそんなことをしたら最後は不幸になると分かっているような、自己破壊的な暴走に走るんでしょう。思ってはならないことを想像し、口にしてはならないことを口にし、してはならないことをして、それで私は自由だとうそぶきますが、何故でしょう。あなたを造った方の嘆きが見えないからです。あなたをお造りになった神の悲しみが、見えないからです。あなたが罪を犯すたびに打ちのめされるような痛みを感じている神がおられることを知らないからです。あなたをお造りになった創造主なる神様は、罪の生涯に生きるためにあなたを造ったのではありません。神の栄光を表す、崇高なる存在として、あなたをお造りになったのです。ところが人は、神から離れ、神との絆を自ら切っているので、ブレーキがきかないのです。根っこから切り離された植物は、しばらくは青々と茂ってはいても、やがては枯れてきます。太陽の軌道から外れた地球は、たちまちにして死の星へと化してしまうことでしょう。レールから外れた新幹線は、大惨事を引き起こす走る凶器になり果ててしまいます。あるべき所から外れること、本来の目的からずれていることが混乱の原因なのです。そして、人間にとって、最もあるべき所、中心とすべき方、目的とすべき存在は、神なのです。この神から離れることが、混乱の根本原因なんです。

罪という障害物に風穴を

 しかし、神様は自ら関係を絶って去っていく人間を、心から惜しまれたのです。永久のお別れになることを悲しまれたのです。祝福の源から、完全に断ち切られた永遠の世界、永遠の地獄という世界へ落ちていく人間を神は黙って見送ることが出来なかったのです。そして人間をもう一度ご自分の祝福の内に取り戻すために、神の子イエス・キリストをこの世に遣わして下さったのです。キリストは神と人との間に立ちふさがる罪という障害物に風穴を開け、人が神に立ち返る道となるために、この世に来て下さったのです。そして自らの意志で、十字架にかかり、あなたの全ての罪をたった一人で身に負い、本来あなたの上に下るはずであった全ての罪の罰を身代わりに引き受け、罪の赦しを完成させて下さったのです。キリストは、死んで三日目に復活し、死をも滅ぼした救い主となられました。このキリストを通るならば、誰もが父のみもとに帰ることが出来るのです。

キリストという道を通って

 私の好きな言葉に次のようなものがあります。「太陽は夜明けを待って昇るのではない。太陽が昇るから夜明けになるのだ。」という言葉です。太陽はまわりの状況を見て、夜明けがくるのを見定めてから登るんじゃない。太陽が昇り出すから、結果として、夜明けがやってくるのだっていうんですね。まわりの状況を見計らっている限り、いつまで経ってもキリストに従う決心は出来ないと思います。キリストという道を通って一歩前に踏み出して下さい。そうすれば、人生の夜明けがはじまるんですね。どうぞ、イエス様を信じて下さい。心からお勧めしたいと思います。



大和田広美・主は私の羊飼い
新約聖書 ヨハネの福音書14:6
 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。