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Bible & Gospel

No.448 2008年10月26日「福音理解の準備」

お早うございます、高原剛一郎です

 さて、いろんなジャンルで成功している人の共通点に、「わずかなチャンスを見逃さない」ということがあります。では、大多数の人が、見逃すチャンスに彼はどうしてひらめくことが出来たんでしょう。チャンスが来たとき、即反応できるような準備があったからです。フランスの細菌学者でパスツールという人がいました。彼は次々と伝染病に関する画期的な治療法を発見した人物でしたが、皆が奇跡奇跡とたたえる中で、こう言ったといわれています。

偶然は準備のないものに微笑まない

「偶然は準備のないものに微笑まない。準備の出来ているものにだけ見えてくる真相がある」って言うんですね。これは聖書のメッセージについても言えると思います。キリストの福音がピンと来るかどうかは、頭が良い悪いとは関係ありません。みことばを受け止める準備があるか無いかです。みことばを受け取る準備とは一体なんでしょう。それは、「自分が罪人であることを認めることが出来るかどうか」なんですね。
 聖書はこう語っています。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

自分の姿を客観的に見ることが出来ない人間

 ところが、自分の罪がなかなか分からないんですね。それには、二つの理由があると思うのです。

 第一に、自分の姿を客観的に見ることが出来ないと言うことなんですね。汚い例ですけど、真っ白なお皿に唾をペッと吐き出して、じっと眺めてからもう一度、なめてご覧って言われるとなんだか気持ち悪いですね。自分の口の中にあるときには、別に汚いと思ってない。でも一旦外に吐き出して客観的に眺めた上で、それを自分の中に戻そうとすると、抵抗を感じるんですね。身体の中にあって見えない物は、汚いと思わないんです。それは、見えないからです。

 ところで私は先日、自分の講演を録画したDVDを見たんです。いや、見るに耐えれないですね。なんて口をゆがめて語っているんだろう。なんて不思議な動きをしているんだろう。そして、一緒に見ている人の中で、とても居心地が悪くなりました。恥ずかしかったからです。福音を語っているときの自分の姿でも、恥ずかしいと思うなら、私が悪口を言っているときの姿は、どんなに恥ずべき姿なんだろう。そういう風に考えました。私が不平不満を言っているとき、私の姿は何て醜いんだろう。それでも日頃は平気で生きているのは、自分の姿を自分の目で見ることが出来ないからではないかと思ったんです。人はどうして自分の罪が分からないのでしょう。客観的に自分を見ていないからです。しかし、あなたが生まれてから、今日まで、あなたの口にしたすべての言葉、あなたが心に思ったすべての考え、あなたが密かに行ったすべての行動を客観的に見ておられる方がおられるのです。それが神なのです。この神の視線をまるで無視しているので、人は罪が分からないんですね。

罪の定義を勘違いしている人間

 第二に、罪の定義を勘違いしていることです。一般的に罪というと法律違反を連想するんですね。ですから、法律を破った覚えのない人は、罪人と言われても、ひとごとのように聞こえてくるんです。しかし、聖書の語る罪とは、的外れという意味なのです。的とは一体誰のことでしょう。あなたをお造りになった創造主のことです。宇宙を造り、地球を造り、あなたを造られた作者である神様の主権を、無視して生きること。神などいないかのように、自己中心で生きること。神様を無視して生きることを、聖書は罪と語るんですね。

先に見つけた人に権利がある?

 私は先日、ひと組のご夫婦とお話し致しました。お二人はかねてから一つ夢があったんですね。それは、庭付きの家に住むと言うことです。それで広いお庭のある借家を借りて住むことにしたのです。その庭には色んな花があり、季節ごとに咲く花を楽しみにしていました。ところが、ようやく蕾が花になろうとすると、その花が忽然と消えるんです。一体何があったんでしょう。見知らぬおばあさんが庭に入ってきて、片っ端から花を切り取っていくっていうんですね。「どうしてそんなことをするんですか」とおばあさんに訊ねると、彼女は言ったそうです。「あんたたちがこの家を借りる前、庭の植物に水をやっていたのは、この私なんだ。だからここの花は全部わたしのものさ。」っていうんです。
 ある時このおばあさんがまたしても、庭に入ってこられました。そして、大きなヤカンに水道から水を取っているんですね。「何してるんですか」と聞くと、「ゲートボール仲間にお茶を振る舞うために、水を汲んでいるのが見えないの」って聞き返すんです。「でも、ここは私たちの家の水道ですよ。」というと「何言っているのあんたたちがこの水道を使う前に、私の方が先にこの水道を使ってたんだよ。先に見つけた人に権利があるんだよ。」まあ、このおばあさんの主張は、どんどんエスカレートしていくんですね。彼女は、他人の物を使うとき、許可を得ません。また、使った後で、感謝もしません。もしこのおばあさんが、仲間を引き連れ、庭の中でバーベキューパーティーをしたり、プレハブ住宅を建て始めたらどうでしょうか。住居不法侵入ですね。これはれっきとした犯罪です。私は話を聞きながら、「なんて厚かましい人だろう」と呆れました。そして、そんな人が自分のご近所にいないことを感謝しました。

創造主である神が本当のオーナー

 しかし、もし私たちが、自分の造り主の主権を認めずに生きているならば、この厚かましいおばあさんと同じようなことをしていることになるです。なぜなら、私たちが我がもの顔で使っている地球資源の本当のオーナーは、それを造った神様のものであるからです。私たちは生きていくために、空気を必要としています。しかし、空気は誰が造られたのでしょう。神です。私たちは生きていくために水を必要としています。しかし、水は誰が造られたんでしょう。神です。私たちが生きていくために太陽やエネルギーや色んな資源を必要としています。しかし、太陽やエネルギーは誰がお造りになったんでしょう。創造主なる神です。私たちは、創造主の造ったものを、使って生きているのに、その本当のオーナーを無視して生きているということは、反逆であり、不当なことだと言えるのではないでしょうか。罪とはまず第一義的に神に対する不当な態度のことを言うのです。

 しかし、神様はこの罪人の人間に対して、罰ではなく赦し、のろいではなく祝福、怒りではなく和解、地獄ではなく天国を準備して下さったのです。しかし、悪人に正当な罰を与えないことは、果たして正しいと言えるのでしょうか。仮に警察官が、銀行強盗の犯人を捕まえたところ、それが自分の息子だったことに気付いたので、そっと見逃してやったとするならば、それは立派な行為と言えるでしょうか。いいえ、不法なのです。不正なのです。罪を見逃す警察官は、悪い警察官です。

赦しても不正にならないのは十字架があるから

 神様は、正しい神ですから、たとい人を愛していたとしても、その人が罪を犯したときに、見逃すことが出来ないのです。神は正しい神ですから、どんな小さな罪も見逃すことがお出来にはなりません。どんなにわずかの不正も、赦すことが出来ない神が、過去にどんなにひどい罪を犯した人間をも、赦したとしても、それが不正にならないのは、キリストが十字架にかかって、身代わりに罰を引き受けて下さったからなんです。あなたのためにご自分の命で償いをし、三日目に復活し、今も生きてあなたが、今決心することを心待ちにしている方、それがキリストです。どうぞこのイエス・キリストを信じて下さい。心からお勧めしたいと思います。



ノア:感謝せずにいられない
新約聖書 ローマ人への手紙3:23-24
 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。