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Bible & Gospel

No.452 2008年11月23日「悔い改めるのに遅すぎることはない」

お早うございます、高原剛一郎です

 さて、ペットを本当の家族のように接する人が増えているそうです。泊まりがけの旅行の時も一緒に車に乗せて連れて行くって言うんですね。ところが、犬の中にも乗り物に強い犬と、弱い犬がいるそうです。弱い犬は乗り物酔いするんですね。この犬の車酔いを防ぐためには、二つの方法があるそうです。一つは運転中よく犬に話しかけてやることだそうです。「きれいな景色だろう。見てみろよあの紅葉。パーキングでちょっと休もうか。」とにかく会話をすると、気分が晴れるっていうんですね。

将来に希望があるなら耐えることが出来る

 もう一つは、車で楽しいところに連れて行くことなんです。「この車に乗れば楽しいところに連れて行ってもらえるんだ。」という経験を繰り返すことです。実は犬の乗り物酔いの原因は、乗り物だけあるんじゃない。その乗り物に乗っていったところで、嫌な思い出が出来ると次からは、その乗り物に乗るだけで、嫌なことが始まると考えるようになるんですね。いわゆる条件反射なんです。犬でも目的地や将来に楽しい希望があるなら、途中の揺れが少々ひどくても、耐えることが出来る。ましてや万物の霊長である人間が、長い人生の旅をする中では、なおさら、将来に希望を持つことが、必要なのではないでしょうか。

死の土壇場で平安を得た一人の人物

 今日、永遠の希望を見出したが故に、死の土壇場になっても、平安を得た一人の人物を考えたいと思います。  今から、2000年ほど前、エルサレムの郊外に三人の人物が十字架処刑されました。全体重がたった三本の釘で磔になる十字架刑というのは、その痛みとむごたらしさで群を抜く死刑の方法です。三本の十字架の内、真ん中にはイエス・キリスト、そしてその左右に強盗犯人が磔られたのです。激痛の中で、犯罪人の一人は、イエスを思いっきり、ののしります。「お前はキリストだというんだったら、俺たちをここで救って見ろ。」しかし、もう一人の犯罪人は、こう言いました。「俺たちは自分がしたことの報いを受けているんだから、当たり前だ。しかし、この方は悪いことを何もしなかった。」そしてキリストに言うんです。「イエス様。あなたの御国の位におつきになるときには、私を思い出して下さい。」イエスは彼に言われました。「まことにあなたに告げます。あなたは今日、私と共にパラダイスにいます。」一人の罪人がキリストによって、天国に行く保証を得た瞬間です。

自分の人生は自分で選んだ結果であると認める

 さて、ここに人生を転換する三つのステップが示されているように思うんですね。  第一番目に、自分の人生は、自分で選んできた結果であるということを認めると言うことです。イエスの隣で、同じ十字架処刑を受けている犯罪人は、思いっきりイエスをののしりました。彼にとっては死刑は反省の機会になりませんでした。彼の心にあったのは、ただただ悔しいという思い、憎悪、怒りで満ちていたのです。なぜでしょう。自分を人生の被害者だと見なし、自己憐憫の見方で、自分の人生を見ているからです。「こんな人生になったのは、俺が悪いんじゃない、あの親の育て方、あのひどい生い立ち、あの悪い仲間、あの悪い女、あの悪い男に騙されたせいで人生がメチャクチャになってしまった。」という被害者の意識です。

 実際、人生の中には、本人のせいではない。気の毒としか言えないような、本人の選べない条件というものがたくさんありますね。どこの国のどの時代に、どっちの性別で、どんな家庭に生まれるのか、これは人には選べないことです。そして、子供たちは、親を選べません。勿論親も子供を選べないんです。お互い様ですね。世の中には、絵に描いたような理想的な家庭もあれば、「これはひどいぞ」と同情せずにはおれないような崩壊家庭もあるんです。誠に不公平に見えるんです。このように人生には確かに、自分では選べない多くのことがあります。しかし、それと同時に、自分で選ぶことの出来る機会も無数にあるんです。ひどい家庭に育った人は、全員ひどい人生を送らなければならないという決まりはありません。返ってその逆境をバネにして、人格的にも磨き上げられた方々というのは、数限りなくいらっしゃるんです。実は、生い立ちがその人生を決定づけたのではなく、生まれた後の本人の選択が、その人の人生を作っていったんですね。即ち、私が今こうである理由は、私自身の過去の選択による。不幸を人のせいにするというのは、楽なんですけど、それは実りのある人生にはならないのです。

神は私を愛しておられることを信じる

 第二に、それでも、神は私を愛しておられるということを信じることです。今どんなにみじめで自分ですら愛想が尽きそうな自分であったとしても、神はあなたを愛することをおやめにならないのです。たとい人があなたを見捨てて、ののしっても。その人はあなたの人生に決定的な力を持ってはいません。「あなたの人生を本当に変え得る神が、あなたをどう思っておられるのか」ということが一番大事なことなんです。そして、神様は、あなたを愛しているんです。イエスの隣で十字架についていたもう一人の強盗は、「イエスが最低最悪の状態にある自分を愛していて下さっているんだ。」ということがよく分かりました。なぜでしょう。彼のために十字架の上で祈り執り成すキリストのことばを聞いたのです。「父よ。彼らを赦して下さい。彼らは何をしてるのか、自分で分からずにいるんです。」キリストはあなたのためにも、この祈りをささげられた方なのです。

やり直しの選択をするチャンスが神から提供されている

 第三に、「今日、今、再び、やり直しの選択をするチャンスが、神から提供されているんだ。」ということを認めるということです。  人生で一番大事なことは、今までどうだったか、ということではありません。これからどの方向に進むのかということなんです。今日、どっちを選ぶのかということが一番肝心なことなんですね。二人の強盗は今まで、創造主から離れ、間違った道を選び、自己中心に生き、したい放題の限りを尽くし、同じように十字架に架かる羽目になりました。そして、6時間にわたって同じ目線にいる傷だらけのイエス・キリストを間近で、同時に見たのです。しかし、彼らは正反対の選択をしました。方や悪口とあざけりにより、イエス・キリストを拒否した強盗。もうここまで、来て今更何を信じたって手遅れだという風に思ったのかも分かりませんね。しかし、もう一人の方は、この十字架に上げられた方を救い主として、認めたのです。「イエス様あなたに相応しいのはこんな醜い十字架の上じゃない。永遠の天の御国の王座です。そして、あなたはそこにつかれる日が来ます。そして、その時には、悔い改めるのには遅すぎた手遅れの男がおったということをどうか思い出して下さい。」しかし、キリストはおっしゃったのです。「あなたは今日私と共にパラダイスにいるよ。」

失敗したならやり直したら良いんです

 皆さん、生きている限り、やり直しするのに遅すぎるということはないのです。死の数時間前でも死の瞬間でも、もし人が悔い改めてキリストを仰ぐなら、その人は罪赦され、永遠のいのちを持ち、天国でキリストとともに治めるものとされるのです。まだ手遅れでないんです。今まで失敗したなら、やり直したら良いんです。どうぞ、あなたのために十字架につき、墓からよみがえったキリストを今日信じて下さい。



福沢路得子:ヴィア・ドロローサ
新約聖書 ルカの福音書23:42-43
 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」