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Bible & Gospel

No.502 2009年11月08日 「朽ちることのない希望」

おはようございます、尼川匡志です

 いまから4年前の2005年、東京大学で10人の研究者によって希望学という学問が始まりました、これはいろんな角度から希望とは何かを考えるものだそうですその研究のなかで20才以上60才未満の2000人の方を対象にある調査が行われました、それはあなたは希望をお持ちですか、というものです、結果は3分の1の方がいいえと答えられました。皆さんはどうでしょうか?

希望は聖書の大切なメッセージ

 あなたは希望をお持ちですか。私はこの希望というものがとても大切なものだと考えています。それは私たちの人生には思いがけない困難やトラブルが付きものです、自業自得のものもあれば降って湧いたような災難もあります。いずれにしてもそれはとても辛いものです。そしてこの困難やトラブルを乗り越えてゆくエネルギーのひとつに希望があると思うんです。  聖書はこの希望について実にさまざまな言葉で表現しています。朽ちることのない希望、いつまでも残る希望、失望に終わらない希望、つまり希望は聖書が私たちに伝えたい大切なメッセージの一つなんですね、

売り上げNo.1のセールスマン ビル・ポーター

 先日私は一冊の本を読みましたタイトルは、「きっとイエスと言ってもらえる」というものです。
 アメリカの北西部に長年にわたって売り上げナンバーワンのセールスマンがいました。名をビル・ポーターといいます、彼は生まれつき手足に障碍があり、言葉がうまく話せませんでした、でも彼の両親はこの子は神様からの贈り物だといって大きな愛で彼を育てました。彼は成長し、そして成人したとき彼の選んだ仕事はなんと訪問セールスマンだったんですね。

 一軒一軒ドアをノックします、当然ですが断られます、「間に合っています。結構です。」しかし彼はこのノーという返事を、二度とこないでと言う否定的な意味には捉ええなかったようです。「もっと時間のあるときに来てください。もっと興味のある商品を持ってきてくださる?」と受け取ったそうです。それでも落ち込むことがありました。そんなときに彼が呪文のように唱えていた言葉があります。それが「きっと次の家ではイエスといってくれる」という言葉だったそうです。「今はわからないけれど、きっとイエスといって受け入れてくれる家があるんだ。」彼はそう信じドアをノックし続けたのです。彼の成功の秘訣は未来を信じる希望にあったんですね。

希望を手に入れるために必要なもの

 希望を手に入れるために必要なものがあります。それは信じるということです。先ほどの調査で「希望がないと答えた方が三分の一いた。」といいましたが、その方は実は希望がないというのではなく「信じるものがない」といえると思います。目に見えない大切なもの希望や愛や友情を手に入れるには信じるということが不可欠なんです。疑いは逆にそれらのものを手放す結果を生んでしまいます。もうひとつ覚えていてほしいことがあります。それは信じることは確かに大切なんですが、「その信じる対象が不確かなものであるなら、結果その希望も不確かなものになる」ということです。実態のないものをいくら強く信じていたところでそこから生まれてくる希望は最終的には実体のないものになるのは当然のことですよね、

いつまでも残る希望

 聖書の語る希望は朽ちることのない、いつまでも残るそして失望に終わらない希望と言いましたが、それはその希望を与えてくださる方、信じる対象である方が朽ちることのない永遠に存在し信じるものを決して失望させることのない私たちの魂の親、生ける神様だからなんですねこの方を信じることによって生まれる希望はどんなことがあっても失われることがないのです。

 聖書の中にこんな一説があります。「そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
 これはイエス様の十字架の場面です、イエス様の右と左には二人の犯罪人がつけられていました。この二人は死の恐怖と、絶え間なく襲ってくる激痛の中に、まさに絶望的な状況に追い込まれていました。十字架にかかるくらいですからとんでもないことをしたのは間違いありません。自業自得です。でも私はふと考えるときがあります。果たして私は彼らとどれほどの違いがあるのだろうか。私は果たして正しい人間なんだろうかと、答えは「ノー」です。

十字架上のイエス・キリストの祈り

 実は私も人生の歯車がほんの少し狂っていれば簡単に間違いを犯す危なっかしい人間の一人なんです。私とこの二人の犯罪人の違いはそれほど大きくはないと思います。ただ私は守られ、恵まれ生かされているに過ぎないのです、この二人は目前の死と激しい苦しみの中で人生を後悔したでしょう。でも決して言い逃れはできません。不幸な状況はそれぞれあったにせよ愚かな選択の結果が今の彼らを作った事実は変わらないのですから。彼らはこの苦しみと恐怖をどうすることもできずに、ただ自分に刃を向ける人間に向かってその思いをぶつけるしか方法がありませんでした。とそのときです。彼らの一人が耳にしたんです。すぐ横で同じように十字架につき苦しんでいるイエス様の口から出る言葉を。それは祈りでした。こんな祈りです。  「父よ。彼らをお許しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」イエスさまはそう祈られたのです。「父なる神よ。何の罪もない私を十字架につけるような、おろかな人間たちを裁いて下さい。」と言うのではなく「彼らを許してください」と祈られたのです、誰かに見せるためでも評価されたいからでもありません、死を前にしてこの方の心から湧き出る真実な叫びでした。祈りでした、イエスさまは十字架の上で私たちのおろかな罪の赦しを願われたのです。

私とともにパラダイスにいます

 あなたは自分を攻撃し危害を加える人間に対しどう対応されますか。怒りませんか。恨みませんか。憎みませんか。その人たちの身を案じることが言えますか。願えるでしょうか。このイエス様の愛はそれを聞いていた男の心にしみこんでいきました。そして、その瞬間彼の目からうろこが落ちました。思い出したんです。この方が貧しい人を愛し、弱い人に寄り添い、悲しむ人を慰め、多くの人から救い主と信じられていたことを。その時は、バカバカしいと思っていましたが、でも今はっきりと判ったんです、「この方は人間ではない神様だ」と。なぜあのとき気づかなかったのか悔やまれます。しかし、もう後悔している時間は残されていません。彼の裸の心は、堰を切ってこの方に向かって流れ出しました。「イエス様、御国の位にお着きになられたとき私を思い出してください。」イエス様は答えられました。「あなたは今日、私とともにパラダイスにいます。」

死が目前に迫っても希望を与える聖書

 彼は人生の最後の最後に希望を手にしました。ぼんやりとした抽象的なものではありません。イエス様を神と信じ、この方の言葉を受け入れ、「今日あなたは私とともにパラダイスにいます。」という約束を自分のものとしたのです。信じることで希望を手に入れました。天国の希望です。彼の目から涙があふれました。うれしくて、ただ心からの喜びにみたされて、たとえ失敗だらけの人生であっても、たとえ死が目前に迫っていたとしても聖書はその人に希望を与えることができるのです。そしてその希望はその人に生きる力を与えてくれるのです。あなたは希望をお持ちですか。聖書が与えてくれる永遠になくらならない希望をぜひ手に入れてください。



みぎわ:十字架の上で
新約聖書 ルカの福音書23:42〜43
 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」