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Bible & Gospel

No.513 2010年01月24日 「体と魂の救い主」

おはようございます。尼川匡志です!

 先日、一編の詩を読みました。『最後だとわかっていたなら』という詩です。

最後だとわかっていたなら

あなたが眠りにつくのを見るのが/最後だとわかっていたら/
わたしはもっとちゃんとカバーをかけて/
神さまにその魂を守ってくださるように/祈っただろう/
あなたがドアを出てくのを見るのが/最後だとわたっていたら/
わたしはあなたを抱きしめてキスをして/
そしてまたもう一度呼び寄せて/抱きしめただろう/
あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが/
最後だとわかっていたら/わたしはその一部始終をビデオにとって/
毎日繰り返し見ただろう/
あなたは言わなくても/分かってくれていたかもしれないけれど/
最後だとわかっていたら一言だけでもいい『あなたを愛してる』と/
わたしはつたえただろう/
たしかにいつも明日はやってくる/
でももしそれがわたしの勘違いで/今日で全てがおわるのだとしたら/
わたしは今日どんなにあなたを愛しているか伝えたい/
そしてわたしたちはわすれないようにしたい/
若い人にも年老いた人にも明日は誰にも約束されていないのだということを/
愛する人を抱きしめられるのは、今日が最後になるかもしれないことを/

ノーマ・コーネット・マレックの詩

 この詩はノーマ・コーネット・マレックという方の詩です。彼女の息子が10歳だったある日、川でおぼれている子供を助けようとして、自分がおぼれて、亡くなってしまいました。彼女はその知らせを受け、深い深い悲しみに沈みこみました。そしてその悲しみの中で書いたのが今の詩なんです。今日で終わるとわかっていたら、あんな事やこんな事をしてあげたかったなあ。そんな思いが込められています。
 私たちは誰もが、当たり前のように明日はやってくると考えています。しかし実際はそうではありません。私たちはいつ、どこで、どんな形で自分に死が訪れるかは、全く分からないのです。年をとったから死ぬのではありません。若くても死ぬことはあるのです。それこそ、ある日突然死が私たちに訪れます。それが今日、起こってもおかしくないのです。もし今日、あなたに「死」が訪れるとしたら、残された時間をあなたは何に使われるでしょうか。誰とどのような時間を過ごされるでしょうか。

十字架で死ぬことを知っておられたキリスト

 神の御子であるイエス様はいつどんな形で、どんなに激しい苦しみを受けて、死ぬのかをご存知でした。その点では、私たちとは全く違います。聖書に、明日十字架にかかって死ぬ、そのことがはっきりと分かったイエス様がどのようにしてその最後の時間を過ごされたのかが、記されてある箇所があります。
 『さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。』

現実に「死」が目の前に迫った時

 自分に残された時間があとわずかであることを知れば、私たちの生き方は当然変わります。今と同じ様には生きることは出来ないのです。どちらでもいいことはしたくありませんし、本当に大切な事は何かを考えるようになるはずです。
 先ほど『今日死があなたに訪れるかもしれません』と私は言いました。それを聞かれた皆さんは『ああ、本当にそうだっ!』と自分の死を真剣に考えられたでしょうか?恐らく「それもそうだけれど、今日は大丈夫だろう」と考えて、いつもと同じ生活を続けるんじゃないでしょうか。残念ながら、それが私たちの「死」というものの捉え方なんです。正直捉えきれないんですね。そして現実として「死」が自分の目の前に迫った時、初めてあわてふためくのです。
 もし3ヶ月後にこの地球に隕石が激突して、大爆発を起こすというニュースで報じられれば、あなたの人生は変わるはずです。聖書の語る「救い」や「永遠のいのち」に無関心ではおれないと思います。でもどこかで大丈夫だと高を括ります。しかし3ヶ月後、本当にあなたも私もこの世界にいないかもしれないのです。それが私たちの現実です。その現実を踏まえおく必要があるのではないでしょうか。

残るところなく愛を示す

 さてイエス様はこの世界での時間が、残り僅かであることを知られた時、どうしてもしておきたい事がありました。それは心から愛する弟子一人一人の足を洗うということでした。目的は、弟子たちへ愛を「残るところなく示すためだ」と書いてあります。中東の道を一日歩けば、足は汗と埃で真っ黒になってしまいます。弟子たちの足は恐らくとっても汚なかったでしょう。足は体の中で一番汚れている部分でした。イエス様はその最も汚れた足を洗って下さったのです。この世界で残された僅かな時間の中でイエス様がどうしてもしたかった事は、愛する者の汚れを除く事であり、限りない愛を示す事だったのです。

自ら汚れを取り除くシステム

 自然界には汚れを寄せ付けないものがあるそうですね。梅雨の時、アジサイの葉の裏に付いているカタツムリの殻はまさにその構造を持っているそうです。汚れがついてもすぐに落ちてしまうんですね。とっても便利です。でも、私たちの体はそうはいきません。私たちがもし10日間も風呂に入らなかったら体はたちまち、とんでもない臭いになります。私たちの体には、自ら汚れを取り除くシステムがないんですね。汚れは何らかの方法で取り除いてもらわなければならないんですね。放っておいてもカタツムリのように綺麗にはならないんです。

足を洗うことこそ十字架の象徴

 さて、イエス様は弟子たちの汚れきった足を洗って下さいました。そしてこの足の汚れ以上に、自分たちでは絶対に取り除くことのできない汚れが人間にはあります。それが神の御前での私たちの罪です。イエス様がこの世界に来て下さった最大の理由、それは十字架で私たちのこの罪を完全に取り除き、神さまの御前できよい者にするためでした。この足を洗うという行為こそ、その十字架の象徴的に現すものだったんです。

神の御前での私たちの罪

 イエス様が弟子たちの足を洗い、ペテロの所に来られた時、ペテロはこう言いました。「主よ私の足を洗わないでください。」その時イエス様はペテロに答えられました。「私が洗わなければ、あなたは私と何の関係もありません。」イエス様は私たちの汚れをどうしても取り除きたかったのです。そしてこの方が、最も取り除きたいもの、それが神の御前での私たちの罪なんです。
 罪の汚れを取り除くために、イエス様は来て下さいました。だからこの方は、罪を持っている者を決してさげすまれないんです。それどころか、罪あるゆえにその者に近づき、愛を注いでくださるのです。あなたの罪を取り除くために、あなたの目の前で膝まづいて下さっているイエス様に、是非、きょう出会って下さることをお勧めしたいと思います。


マリエ:その大きな愛ゆえに
新約聖書 ヨハネの福音書13:1
 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。