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Bible & Gospel

No.553 2010年10月31日 「生きておられる友なるイエス」

おはようございます。那須 清志です!

 平城遷都1300年祭の公式マスコットとして発表されたキャラクターに「せんとくん」というのがあります。2008年に発表されたときにはかわいくないと批判され「まんとくん」「なーむくん」という対抗馬も作られました。その後、若い女性たちから「きもかわいい」言われ一転して大人気になりました。15億円を超える経済効果を生み出したそうです。人の評判などは移ろいやすいものですね。一方、十字架のペンダントや十字架をモチーフにしたアクセサリーなどはブームに関係なく時代や場所を超えて使われています。考えてみれば不思議なことです。十字架とは2000年前の死刑の道具だったからです。

死刑のシンボル?十字架の意味とは

 先日、東京拘置所の「刑場」が報道機関に公開されました。死刑囚が立つ踏み板とロープを掛ける滑車がある「執行室」の写真もありました。ロープがあるわけでもない、血が一滴たりとも落ちているわけでもありません。でも、気持ちのいいものではないですね。ましてやその写真を飾ったり、記念にしようなどと夢にも思いません。  十字架刑は、絞首刑、電気椅子など人間が考え出した死刑方法の中で最も残酷、凄惨なものだと言われています。それがクリスチャンや教会のシンボルになっていることが多いのはなぜでしょう。

私たちの罪のための身代わりの死

 約2000年前、イエスが十字架で死んだことは、確証された歴史上の事実です。一流の歴史学者でそれを否定する人はいません。しかし、それが何のためであったかということになると意見が分かれるのです。  イエス・キリストの十字架の死の意味は、私たちが受けなければならなかった罪の刑罰をイエスが身代わりに受けてくださったものである、と聖書は語ります。人間を愛された神は、全人類の罪をあの十字架の上で処分されたというのです。 「全人類の罪の身代わり」というのは、作り話のように聞こえることでしょう。でも、そのあり得ないようなことを保証するのが、十字架の三日後に起こった「死からの復活」です。神はイエスを死者の中から生き返らせることによって、イエスの十字架刑がそれまで行われた、またその後に行われた何千、何万の十字架刑とは全く違うものであることをこの世界に明らかにされたのです。
 自分に起こることをご存知であったイエスは弟子たちに予め何度も語っておられました。「人間の罪の身代わりに十字架にかけられること、そして三日目によみがえること」などです。しかし、弟子たちには理解できませんでした。ですから十字架の場面で、ほとんどの弟子たちはイエスの前から逃げて、隠れていました。ところが、弟子たちは復活したイエスに出会ったのです。すべての謎が解けました。どうして何の罪もないイエスが十字架にかからなければならなかったのか、どうして神はイエスを復活させたのか…。これ以降弟子たちは命をかけて、イエスの十字架と復活をのべ伝え始めました。  イエスの復活は、命を吹き返したという単なる蘇生ではありません。しばらくして、または何年か後に死んだというのであれば、それは聖書がいう復活ではありません。聖書が語る復活は「新しい命」を持ってよみがえったということです。二度と失うことのない命、永遠の命です。イエスはこの命をもって40日間この地上を歩まれ、その後、直接天に引き上げられていきました。聖書に次のように記されています。

「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」(使徒の働き1章3節)

 復活後40日間で弟子たちにイエスが伝えたかったことは「ご自分が生きている」ということでした。イエスは天に引き上げられ、私たちの目には見えませんが、「今も生きておられる方」です。生きていると言うのは「反応がある」ということです。私たちの語りかけに応じてくださると言うのです。神は、天地万物をお造りになった偉大な方であると同時に、私たちが思っている以上に身近な方で、私たちと親密な関係に入りたいと願っておられるのです。

賛美歌「いつくしみ深き」

 さて、有名な賛美歌に「いつくしみ深き」というのがあります。聖歌では「罪とがをになう」という題です。 この曲が日本で馴染みがあるのは、替え歌にされて唱歌として歌われてきたからです。明治時代には「星の界」として、現在は「星の世界」という詩で小学生の音楽の教科書にも掲載されています。元の曲の題名は直訳すると「私たちはイエスという何という友をもっているのだろう」というものです。この歌の詩を書いたジョセフ・スクライブンは、プリマス・ブレザレンという群れに属し、イエスの十字架・復活はもちろんのこと、イエスが今生きておられる方であるということを心から信じていました。その彼に一つの悲劇が襲います。彼の婚約者が、結婚式の前夜に、事故によって溺れ死んでしまったのです。この後、彼はカナダに移住しました。遠くアイルランドで病床に伏す母親を慰めるためにこの詩を書いたと言われています。この賛美歌の2番を英語から直訳すると次のようになります。

「試練や誘惑がありましたか?どこかに困難がありますか?
 でも、決して失望することはありません。祈りの中でそれらを主の前に持っていくのです。
 私たちの悲しみのすべてを共に悲しんでくれる誠実な友を見つけることができますか?
 イエスこそは、私たちのすべての弱さを知っておられます。
 ですから、祈りの中でそれらを主の前に持っていくのです。」

私たちに共鳴できる方

 この詩ができた後、スクライブン自身が病に倒れました。友人が見舞いに来て、その友人はベッドの近くになぐり書きされたこの詩のメモを見つけ、一読すると尋ねました。「このすばらしい詩はだれが書いたのかい」スクライブンは答えました。「主と私で、私たちの間で作ったんだ…」と。こうして人に見せるつもりのなかった彼の詩は、全世界で有名なものとなりました。
 スクライブンにとってイエスは、2000年前に生きていた過去の人物ではありません。理想の教師や、目標としている人というのでもありません。今も生きておられ、親しく交わることができる友だったのです。実は、彼はもう一度婚約者を病気で失うという悲しい経験をします。賛美歌「いつくしみ深き」の一番の歌詞に次のようなフレーズがあります。

「なんと私たちはしばしば平安を失ってしまうことでしょう。
 何と私たちは不必要な痛みを背負いこんでしまうのでしょう。
 祈りの中で主のもとにそれらすべてを持ってこないからです。」

真の友なる救い主キリスト

 スクライブンは、悲しみ、痛みをイエスのもとにもってきました。そして、友なるイエスと悲しみを共有していったのです。今生きておられるイエスだけが真の平安を彼に与えることができたのです。
 このイエス・キリストの前に自分の罪を認め、私たちの罪の代わりに十字架で死んでくださり、三日目によみがえった救い主としてイエスを心に迎えいれるならば、あなたも救われます。その時、プレゼントとして復活の命、新しい命、永遠の命を受けると約束されているのです。そして、この方を最高の友とする歩みが始まります。この地上に真の友人を見いだせない方でも心配いりません。あなたを愛し、あなたのために命を捨てられただけでなく、三日目によみがえったイエスご自身が、あなたの友となることを願っておられるのです。この方を真の友とする人生に入っていただくことを心からおすすめいたします。


森 祐理:いつくしみ深き
新約聖書 第2テモテ2:8
 私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。