新約聖書
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
(ヨハネの福音書16:33)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.566 2011年1月30日

「平安の在り処」

おはようございます。高原剛一郎です!

 私は今月、一人の大切な旧友を亡くしました。8年間の闘病生活の末に、元旦に息を引き取ったのです。彼が患っていた病気はALSという病気でした。全身の筋肉が動かなくなっていく病です。最後は呼吸する筋肉も委縮してしまいます。しかも現代医学では治療法がないのです。


 この病にかかられたある人は、肉体という潜水服に閉じ込められて海の底に沈められてしまったような気がすると書いていました。私はこの発病を初めて聞いたとき、彼のような人格者がなぜこんなことになるのだろうと思うと同時に、もし自分が同じ病になったらと考えてぞっとしたのでした。

不便ですが不幸ではありません

  ところでこのような重すぎる現実に生きる方々に対して私たちは苦手意識を持つことが多いのではないかと思います。というのは面会してもなんと言葉をかけてよいのか思い付かないからです。それでつい足が遠のいたり、気まずい沈黙に耐えかねて意味のないバカ話をして、ごまかしてしまうようなことが多いと思うのです。ところが彼の家はまるで違っていました。この方のご家庭を一言で言うなら、千客万来なのです。

穏やかさ平安の秘訣

 クリスチャンであるか否かを問わず全国から彼の噂を聞きつけた方々が見舞いに殺到するのです。しかもリピーターが多いんです。そしてその見舞いの内容はたいていは人生相談だったのです。あなたならこのような場合どう判断しますか。そういう問いを携えてこの難病中の難病を患う人のもとへやって来るのです。どうして彼に聞くんでしょう。体は日々衰えていくのですが、心が実に穏やかで時に楽しそうですらあったからです。「私は不便になりましたが決して不幸ではありません」と言うのが彼の口癖でした。それで多くの方は、彼の穏やかさ平安の秘訣を何とか知ろうとしてやって来たのです。彼が握っていた平安のありかは聖書の中にあるのです。それはキリストが十字架に架かる直前、弟子たちに語られた言葉の中にあります。こう書いてあります。

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

信ずるに値する三つの事実

 ここでキリストは信ずるに値する三つの事実を語られました。
 第一に神は患難の只中で勇敢であれと励ましてくださる方だというんです。患難が続く人生を歩む方が、この番組を聞いて下さる方の中におられることでしょう。そんなあなたに是非お伝えしたいことがあります。人生は神そのものではないということです。ひどいことが起こる人生と神をごっちゃにしてはいけません。痛ましいことが次から次へと起こるこの世界や人生は神の御性質を反映させたものではありません。むしろこの世界を造られた神から離れた結果がこの混乱、この悲惨な現状なのです。私の旧友はその違いをよく心得ていました。そしてこの世界をお造りになった全能の神は良き方であっていつも自分に対して最善未満のことはなさらないと信じていたのです。キリストが現してくださった神はどんな大きな問題よりも大きな存在であり、どんなに深刻な問題よりも深い知恵者であり、どんなに強力な困難よりも力強い方。この偉大にして賢く憐み深い神が私の人生の真の支配者であると信頼していたのでした。

死という最大の敵に勝利したキリスト

 第二にキリストは世に勝った救い主だということです。この世が人間に加える攻撃には様々のものがありますが、最大の攻撃はなんと言っても死です。私たちの恐れの根本にあるのは何につけても死に結びついているものであると思います。どうして病気を恐れますか。治らないと最後は死ぬからです。どうして失業を恐れますか。収入の道が立たれたら最後は餓死することを予期するからです。どうして仲間外れを恐れますか。精神の死が肉体の死につながることを本能的に知っているからです。ではどうして死を恐れるのでしょう。死の次に何が起こるかわからないからです。そしてそれは何となく良いことが待っているのではなく、恐るべきことが待ち受けていると感じ取っているからではないでしょうか。

聖書は死についてはっきりと語る

 聖書は死についてはっきりと語っています。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっています」と。人が死を恐れるのは死んだ後、自分の罪の裁きを受けることに気付いているからなのです。実に死とは神から離れるという罪の究極の結果なのです。しかしキリストはこの死という最大の敵に対して勝利した方です。あなたを死後の裁きから救うために今から二千年前、十字架に架かりあなたが受けるべき裁きをあなたに代わって受けてくださったのです。そして、死後三日目に死を突き破り死に勝利してくださったのです。

少年時代の体験

 実はこの旧友は小学4年生の時お父さんを亡くされたのでした。それは近くの池で溺れている小学生を助けるために飛び込んだことが原因で、次の日、脳溢血で亡くなられたのです。誰かを助けるためには他の誰かの犠牲があるということを少年時代に体験で叩き込まれた彼は、自分を永遠の地獄から救うためにキリストが犠牲になってくださったことをよく理解できたのでした。そしてこの犠牲を無駄にはしたくないと考えたのです。あなたはいかがですか。

天国とは神による絶対安全圏

 第三に患難はいつまでも続かないということです。キリストはおっしゃいました。「あなた方は世にあっては患難があります。」つまり患難があるのはこの世にいる間だけです。キリストを信じる者には患難のない国、永遠の天国が用意されているのです。クリスチャンにとって死とは患難だらけの世界から、患難のない天国に引っ越しすることにほかなりません。

天国とは神による絶対安全圏

 戦争中、日本では子供たちを疎開させました。疎開というのは爆撃されない田舎に避難させることです。都会に住んでる親たちはいったん空襲が始まったら、足の遅い子供や、体の弱い子供たちは太刀打ちできないと知っていました。それで自分たちは家に残るのですが子供たちだけを、泣く泣く田舎へ送ったのです。実の親子なのに別れて暮らすのは大変に辛いことですね。しかし、それでも送り出したのは、今ここよりも、はるかに安全な場所に大切な子供を送ることになると分かっていたからです。天国というのは神による絶対安全圏です。もはやこれ以上に肉体の苦しみを受けることがない世界なのです。そしてまた同じく天国へ行く者にとっては素晴らしい待ち合わせ場所なのです。
 どうぞあなたもイエス・キリストを救い主として信じ、神の善意を確信し、罪の赦しを受け取り、死後に供えられた天国を待望する人生に是非お入りください。心からお勧めしたいと思います。

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