新約聖書

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
(ローマ人への手紙5:8)

Default Text

「聖書と福音」高原剛一郎

No.577 2011年4月17日

「キリストの自己犠牲による罪の赦し」

おはようございます。高原剛一郎です!

 さて日本ではこの4月が節目の月ですね。学校も会社も新しいメンバーは4月から加わることが多いですね。実はこの番組も今から11年前の4月に始まったのです。そして11年間、私はキリストによる罪と死からの救いを語り続けてまいりました。あらゆる人生苦の根本解決はここにあると確信しているからです。さて聖書の中にこんな言葉があります。

カット

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

 聖書は、神様の愛が人間の愛と決定的に違う点、それは罪人に対する愛だっていうんですね。ところで罪人っていったい誰のことを言ってるのでしょう。すべての人のことを言ってるのです。ところが罪と言ってもなかなかピンとこないという人が多いのではないでしょうか。

聖書が語る「罪」がピンとこない理由

 私は先日、日曜学校の子供からクイズを出されました。「眼鏡を外すと見えるけどメガネをかけると見えないものはなんだ」。しばらく考えてもわかりませんでした。すると彼は勝ち誇ったように言ったんですね。「メガネのレンズや」って言うんですね。なるほど確かに外すと見えるが、かけると見えません。実は人間は自分の一部になってしまったものは突然見えなくなるんです。どうして罪が見えないんでしょう。自分の一部になってしまっているからではありませんか。

恥ずかしかった大腸検査

 先日私は大腸検査を受けました。お尻から小さなカメラを突っ込んで腸の中を見る検査です。この検査の前には約2リットルの下剤を飲んで大腸の中のものを全部出しきる必要があるんです。全部出しきったかどうかは看護師さんが実際に見て判定するんです。が、私はこれがたまらなく恥ずかしいんです。特にきれいな看護師さんだとやり切れませんね。自分の出した汚いものをじーっと見つめられるのはたまらなく恥ずかしく、いたたまれないんです。ところでこの汚いものが自分の体内にあるときには気にならないのではありませんか。自分の一部となって目に見えないときには汚いものでも汚いと感じないのです。しかし改めて客観視するとうんざりしますね。どうして罪が分からないのでしょう。それは自分を客観的に見つめている眼があるということを知らないからです。私たちが生まれてからきょう、こんにちに至るまで私の行為も私の心の中のことまでも全部見ている方がおられることを忘れているからです。

罪とは神との関係が切れた状態

 もう一つ罪が分かりにくい理由があります。それは自分を世界の中心に置いて考えているからです。
 私は自宅から集会まで自転車で通っています。途中近道を使っていくんですが大変道が狭くて入り組んでいるんですね。ところがそんな狭い道なのに時々車が通るんです。すぐ近くに広い道路があるのに、わざわざこんな狭い道に車を乗り入れるなんて実に迷惑な話だなと常々思っておりました。

人はみな自己中心

 ところが先日、家から重い荷物を車で運ぶことになったのです。私が選んだ道はこの狭い近道だったのです。慎重に運転するんですがひっきりなしに自転車が往来するのです。彼らには道を譲る気配が少しもありません。うるさいハエのように行き来する自転車を見ながら思いました。すぐ近くに広い道路があるのにわざわざこんな狭い道に自転車を乗り入れるなんてなんて迷惑な話なんだ。そう言って思わず苦笑しました。それは私が自転車に乗ってる時に思ってることだからです。車に乗ってる時には自転車のマナーが悪いなあと思い、自転車に乗ってる時には車って横暴だなあって思うのはなぜでしょう。自己中心だからです。どうして自己中心になるのでしょう。この世界の存在目的であり、絶対基準者である、真の神を忘れているからです。ですからこう言いかえることが出来るのです。罪とは自分の造り主から離れて生きることです。人生から創造主を除外して生きることです。あなたに命を与え続けておられる神との関係を切って生きることを罪って言うんです。

あなたの罪は赦された

 この命のルーツから離れた結果、人は死ぬものになったのです。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」のです。しかし神様は、神様から離れている人間を赦すことにしました。どのようにして罪人を赦すというのでしょう。イエス・キリストがあなたの罪を背負ってあなたの代わりに裁かれることによってです。キリストの犠牲によってあなたの罪は赦されたのです。

命を守るために自らが犠牲に

 今から12年前、平成11年11月22日埼玉県の入間川河川敷に自衛隊の飛行機が墜落しました。T33というジェット練習機です。乗っていたのは中川尋史さんと門屋義廣さんでした。47歳と48歳のベテランパイロットです。このT33という練習機は製造されて64年もたった古い古い飛行機です。アメリカではとっくにお払い箱になっている飛行機です。この日墜落する4分前二人のパイロットは飛行機の異常を管制官に連絡しました。飛行機はどんどん高度が下がっていきます。オイルの臭いがし、操縦桿に煙が立ち込め始めます。その様子を逐一パイロットは連絡したのです。実はこのT33という飛行機は私たちが海外旅行で使う民間旅客機よりもはるかに安全なのです。というのは万一墜落した時には緊急脱出装置がついているからです。ボタン一つで飛行機のコックピットからシートごと飛び出してパラシュートで着陸できるシステムになっているんですね。

殉職した二人のパイロット

 ただしこの装置が有効に働くためには高度が100メートル以上なければなりません。低すぎるとたとえ飛び出したとしてもパラシュートは開かずそのまま地面に激突してしまうからです。そしてこの二人のパイロットはこの装置を使わなかったのです。なぜなら民家の上を飛んでいたからです。彼らは助かろうと思えば助かる手段を持っていました。しかし飛行機を誰もいない河川敷にまで持って行くためにそれをわざと使わなかったのです。この事故で中村さんと門屋さんは亡くなられたのです。誰かの命を救うために自分の命を犠牲になさったのです。それ以外に誰かの命を救う手だてがなかったのです。愛する日本の国民のために二人のパイロットは自ら進んで殉職されたのでした。

明らかにされた神の愛

 ところでキリストは誰のために十字架に架かってくださったのでしょう。神を無視し、神に敵対し、反逆している罪人のために十字架に架かって死んでくださったのです。しかもいやいやながらではなく愛して命を捧げてくださったのです。そして三日目に復活し、死を滅ぼしてくださいました。いかがですか。こんなすごい愛であなたを愛するキリストを心に受け入れませんか。ぜひそうなさってください。心からお勧めしたいと思います。

コーヒーカップ
時計
MILANの消しゴム