新約聖書
「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」 (コロサイ2:13,14)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.578 2011年4月24日

「心をご覧になる神」

おはようございます。三綿直人です!

 私は、3人兄弟の長男です。私が6歳のとき、双子の弟が生まれました。6歳まで一人っ子だった私は、その時本当に喜んだのを覚えています。この双子の弟は2卵生の双生児で、双子なのに全然顔が違うんです。

カット
幼い時は両方とも可愛かったのですが、彼らが成人した頃には、その違いは明白になりました。一人はジャニーズ系の美男子、一人は板前系の威勢のいい男に成長したのです。そして、なんとこの二人のうち、一人が、私にそっくりなんです。もちろん、板前系のほうです。

オムロンの顔認証技術

 ちょうどそのころ、バイオメトリクスという生体認証技術、その中でも特に顔認証技術で定評のあるオムロンという企業が、ユニークなウェブサイトを用意しました。それは、「あなたの顔が有名人の誰に似ているかお教えします。」というウェブサイトでした。カメラ付き携帯電話、今でこそ当たり前になりましたが、ちょうどそのころ、デビューした頃だったと思います。そのカメラ付き携帯電話で自分の顔を撮影して、指定先にメールすると、有名人の誰に似ているかをすぐにメールで返信してくれるんです。ミーハーな私たち家族は早速試してみることにしました。まず板前系の弟が自分の顔を撮影して送りました。するとなんと、その当時最も人気のあった男前の俳優の名前が返ってきたんです。弟は大喜びです。次に母親が試してみると、なんと誰もが憧れるベテラン女優の名前が返ってくるではありませんか。母とこの弟は二人で手を取り合って喜んでいました。

兄ちゃんは北島三郎なんや

 次は私の番です。私に似ている弟があのイケメン俳優なんですから、イケメン俳優の名前が返ってくるに違いない。返ってきました。するとなんと「北島三郎」と書いてあるんです!弟が言いました。「兄ちゃん、人間の見た目では僕らは似てるかもしれんけど、きちんとした顔認証技術で見たら、僕はイケメン俳優、兄ちゃんは、北島三郎なんや。」なんだかとても複雑な気持ちになったのを覚えています。最後は、父です。「北島三郎」と返ってきました。

聖書が語る神のご性質

さて、みなさん、今朝は「心をご覧になる神」というテーマでお話をします。私たちは、目に見える顔や体が美男子の有名人や美女に似ているとすれば嬉しいものですよね。では、私たちの目に見えない部分、すなわち、心を写すカメラがあったとしたらどうでしょう。私たちのうち、誰が、心の美男子、心の美女だと、言えるでしょうか。世の中を見ると冷たい批判的な心、意地悪な心から生み出される悲しい事件が多いと思いませんか。しかし悲しいかな、私自身の心を正直に探れば、同じような心があることに気づかされるんです。これが写ってしまったら大変なことになる。誰にも見せたくない、そのように思うんです。みなさんはいかがですか?聖書にこのようなことばがあります。

「人はうわべを見るが、神は心を見る。」

神の前における私たちの姿

   私たち人間は人の表面上しか見ることができません。しかし、聖書の語る神さま、私たちのいのちを造り、ひとりひとりの人生を通して歴史を紡いでおられる真の神さまがご覧になり、大切に思うのは、「あなたの心だ」というのです。そして、そのすべてをご覧になる神さまが私たちの心を見て聖書の中でこのように告げておられます。

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれの生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。」

十字架による罪の赦しこそ必要なもの

 この神さまが私たちの心を探り、調べ、心から生み出る行いによって私たちをジャッジするというのです。一体誰が、この神さまの前に立つことができるでしょう。聖書はすべての人が罪を犯し、心はけがれはてている。ゆえに、人は一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている、と宣言しています。しかし、みなさん、ここに喜びの知らせがあります。この私たちの心の汚れから生み出される罪の行為をすべて処分し、心をご覧になる神が「あなたは聖い」と宣言することができるために、イエス・キリストというお方が罪の処分を完了されたのです。
 今から約2千年前、イスラエルのエルサレム郊外でキリストは私たちの罪の身代わりに十字架にかかってくださいました。罪の行いからくる報いが死ですから、その死という報いを、身代わりに受けてくださったのです。そしてこの罪の根本をも処分してくださったのです。十字架による罪の赦しこそ、私に、そしてあなたに必要なものなのです。

完全な罪の赦しがあるところ

 このイエス・キリストの身代わりの十字架による罪の赦しが、如何に完全かをお伝えして終わりにしたいと思います。聖書のコロサイ人への手紙にこのように書いてあります。

  「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」(コロサイ2:13-14)

誰もが入れる喜びの人生

   この聖書のことばによると、私たちの心の汚れ、そしてその心から生み出された一つ一つの具体的罪の債務証書がキリストの十字架によって無効にされた、というのです。この無効にされた、というギリシャ語は、「ぬぐいとられた」とか「消された」とも翻訳できる言葉で、当時の金融ビジネスの世界で債務証書の無効化に使用される言葉とは違う言葉だそうです。通常、ビジネスにおいて用いられる言葉は、「証書にバツをつける」ということばだそうです。負債を免除される時、公にその証書にバツがつけられるんですね。

完全に消された債務証書

 でも、ここでパウロというクリスチャンは、そのバツをつけるという通常のビジネス言葉を使用せずに、「ぬぐいとる」「消す」という言葉を用いたんです。すなわち、こういうことです。バツをつけた債務証書は、後で間違いがあった場合など、再び確認することができます。しかし、ぬぐいとられ、消されてしまった債務証書は後から全く確認することができないんですね。神がキリストにおいて私たちの罪の債務証書を処分されたのは、バツをつけたのではなく、完全に消し、ぬぐいとり、全く罪のないものとして見て下さる、ということなんです。

嬉しいニュース

 みなさん、なんと嬉しいニュースでしょう。自分の心が自分を責めるとき、このキリストの十字架を仰ぎみて下さい。キリストの十字架による罪の赦しを受け取る人は、心をご覧になる神と平和を持つ人生に入れられ、心に平安と喜びがやってきます。陰険、悪だくみ、ねたみでいっぱいの私たちを、神の前に喜びを持って立たせることができる方、キリスト、この方に信頼する人生こそ、躍動感に満ちた喜びの人生です。心をご覧になる神の前に堂々と立つことの出来る人生、このキリストを信じ、受け入れてくださるように、心からお勧めしたいと思います。

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