新約聖書
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
(ヨハネの福音書14:1)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.580 2011年5月8日

「根本的不安に打ち勝つ秘訣」

おはようございます。高原剛一郎です!

 コピーライターの糸井重里さんにある方が質問しました。「少年時代どんな人になりたいと思ってましたか」と。すると彼はこう答えたんですね。「友達が集まった時に、おい、あいつも呼ぼうぜと思い出してもらえるような人になりたかったなあ。自分がその場にいない時、あの人がここにいてくれたらなあと思い出してもらえる人になれたらいいなあ。いる時だけではなく、いない時にも存在感のある人になれたらいいなあと思っていました」と。

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あなたのことを大切に思っておられる方

 ところで、あなたにはそんな風にあなたのことを思ってくれる人がいらっしゃいますか。そんな人いないよと言う方にいいえ確かにおられますとお伝えしたいと思うのです。誰でしょう。あなたをお造りになった真の神様です。あなたがこの世界のどこにも存在していなかった時、あなたが生まれてきたらどんなに良いだろうと考えてあなたを造って下さった方がおられます。それがあなたの作者である神なのです。ところが人間はこの自分の作者との関係を切って神などいないと信じて生きるようになってしまいました。その結果、人は心を騒がせて生きるようになったのです。ある時キリストはおっしゃいました。

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」

神から離れ不安を抱くようになった人間

 心を騒がせるとは不安に支配されている状態のことですね。では人間はどんな時に不安を感じるんでしょう。ポール・ティリッヒいう人は三つの不安をあげました。
 第一に運命に翻弄される不安です。私は先日東日本大震災の被災地に支援物資を届けに行きました。現場に立つと見渡すかぎり瓦礫の山でした。自然の持つ破壊力の大きさに圧倒されたのですが、同時になんてひどい何とむごいことが起こったんだろうと慄然とするのです。この地震と津波と原発事故を巡って頻繁に聞かされた言葉は「予想外」「想定外」「突然」という言葉です。この予想も想定も越えた大災害がある日突然襲いかかり、かけがえのない命や宝を奪い去っていったのです。多くの人はこれを運命だと言います。この運命という得体の知れないものは人間の都合を全く考慮せずに襲来します。それはいつでもどこでも誰にでも降りかかる可能性があるものです。この不条理な偶然がいつ何時やって来るやもしれないと思うと人は不安にならざるを得ません。これを運命に翻弄される不安と言うのです。

生きている意味を探し求める人間

 第二に無意味と虚無の不安です。人間は自分というものがいることでこの世界は何か建設的に良くなっていってるということを確信している時、生きていることに意味と価値を感じ取ることができますね。科学者は自分の発見や発明が人類の生活をより豊かに便利にできたと思えるとき科学者になってよかったなぁと思うのです。芸術家は自分の作品に触れた人々が勇気を得たり元気になったりするのを見て報われたように思うでしょう。そして芸術家になってよかったなあと思うのです。学校の先生は教え子たちが立派に成長し大成するのを見た時、ああ、教師になってよかったなあと実感するのに違いありません。しかし自分なんていてもいなくても一緒だ、何の役にも、何の足しにもなっていないと思うなら力が湧いてきません。途中で挫折してしまうことでしょう。無意味と虚無は人間を駄目にするのです。そしてひょっとしたら私は無意味じゃないかと不安に思うので意味ある人生を必死になって探そうとするのではないでしょうか。

自分の犯した愚かさを責め続ける人間

   第三に罪責の不安です。一般的に人は喜びと祝福を受けて生きていきたいと思っています。喜びで報われ祝福を受け取って生きていく人生は素晴らしいですね。しかし過去に大きな罪や取り返しのつかない過ちを犯した人の中には自分を呪うことで償う人生を生きていこうとするケースがあるのです。自分は喜びで報われたり、祝福を受け取ったりすることは許されないと確信すると、どんな人の親切もまたどんなに素晴らしいチャンスも自分で拒否してしまうようになります。彼にそのような選択をさせる理由は罪責です。自分のように罪深いことをしてきたヤツには幸せになる資格はない。せめて不幸になることで償いを果たそうとするのですがこの不幸の追及にはきりがありません。最後は滅亡なのです。人間はこの運命と虚無と罪の不安を抱えて生きています。いつもはそうと気付かなくても何かのきっかけでこれらの不安の解決なしに生きていたことに気付く時がやって来るのです。それではいったいどのようにしたらこの不安から解放されるのでしょうか。

不安を一掃するイエスに対する信頼

 ところで不安の反対って何でしょう。落着きでしょうか。平安でしょうか。無事でしょうか。あるいは安全でしょうか。それらもそこそこには反対の意味がありますが実はもっと積極的な反対語があるんですね。それは信頼です。たとい天変地異がいつ襲ってくるのか分からない日本列島に住み、やれどもやれども評価や報いのない仕事で食いつなぎ、過去に取り返しのつかない罪を犯してうめいていたとしても、そんな自分をそのままで引き受け、丸ごと受け入れ、人を運命と虚無と罪から救ってくださる方との出会いをするならば、人は心騒がす不安から脱出し、勇気の人と変えられるのです。
 キリストはおっしゃいました。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と。神とはどんな方でしょう。この大自然よりもより強力なお方です。なぜならいかに自然界が大きくまたどうもうであったとしてもこの自然界を統べ治める方、それが創造主なる方であるからです。どんなに強力な自然界も神にとっては被造物にすぎないのです。また神とは人間に使命と目的を与える方です。意味を与える方なのです。価値を生み出す創造主なのです。この意味と価値の造り主があなたに対して語ってらっしゃるのです。「あなたはわたしの目に高価で尊い」と宣言してくださっているのです。そうしてこの神様はご自分の一人子、イエス・キリストをこの世に遣わし、人間の罪の償いをイエス・キリストにおいて完成してくださったお方なのです。たとい私たちの罪が緋のように赤くてもキリストの十字架と復活によって雪のように白くされると聖書は宣言しているんですね。
 どうぞこのイエス・キリストをご自分の救い主として信頼しその救いを受け取ってください。そして心騒ぐ人生から心がキリストの平安で満ちる人生の中に入ってください。心からお勧めしたいと思います。

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