新約聖書
「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」
(ローマ人への手紙8:34)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.581 2011年5月15日

「勇気を与えるキリストの福音」

おはようございます。高原剛一郎です!

 吉本興業のお笑い芸人に、元祖走る芸人、間寛平さんがいます。彼は今年、755日をかけて地球一周、41.000キロをマラソンとヨットで走りぬきました。途中、前立腺癌になった時も帰国せず、アメリカで治療してそのままマラソンを続けたのです。

 日本に到着した時、この限界マラソンの感想を聞かれた彼は意外なことを語りました。「神はおられる。」と言ったんです。限界までやった人は、自分の限界を超えた偉業の背後に、何か目に見えない神の援助を感じることがあったんだと思います。
 今日は、私たちを造られた神様の福音をご紹介致しましょう。

創造主からの愛のメッセージ

 聖書の中にこんなことばがあります。
「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

キリストの十字架の意味

 この中には、人間を励ます神の約束のエールが三つ語られています。
 第一に、あなたがどんな人で、かつて何をしてきた人であったとしても、神はあなたを罪に定めることなく、完全に赦すことができるように、救いを用意してくださっている、という宣言です。それがイエス・キリストの『死』なのです。多くの人は、十字架処刑という惨たらしいキリストの死に方を見て、単なる殉教者や偽善者の姿を連想します。しかし、あの十字架のキリストの死こそは、あなたを罪から救い出すためのいのちの証しなのです。

ウズベキスタンの少年

 実は、寛平さんが走りきったマラソンの中で、一番印象に残っているのはウズベキスタンという国の出来事でした。彼の隣に、中学生くらいの少年が付いて一緒に走り、しかもず~っと何かを話しかけてくるんですね。

カット
ところが、現地のことばなので意味が分かりません。無視するんですが、少年は決して諦めずに何かを訴えてくるんです。しかし、寛平さんにとっては実に煩わしいことだったんです。第一走りにくいんですね。そのうち、自転車に乗った大人が追いついて、少年を引き離してくれました。そして、思いっきり少年を殴り始めたのです。寛平さんは、トラブルに巻き込まれたくないと思い、そのままは走り去りました。ところが夕方になった時、またしてもどこからともなく現れたあの少年が、今度は手振り身振りで話しかけてきます。なんてしつこい奴だと思って少年の顔を見ると、ボッコボコに殴られて変形しているではありませんか。彼はゾッとして、ペースを上げ少年を置き去りにしてゴールに向かいました。

ひどい傷を負いながら訴えていた

 すると、ゴールで待っているはずの映像班が血相を変えてやって来てこう言ったのです。「ずっと隣で話しかけていた少年は、我々に危険を教えていたんだよ。ゴールで強盗グループがあなた達を襲撃しようと待ち構えている。だからあそこへ行っては駄目だと警告してくれていたんだ。さあ、コースを変えよう。ゴールを変えよう」って言うんですね。それを聞いた時、寛平さんの心は酷く痛んだのでした。邪魔だ、うるさいと邪険にしてきたその相手は、ひどい傷を負いながら自分をひどい結末から救い出そうとしていたのだと分かったからです。それで、申し訳なさで一杯になったっていうんですね。

十字架の上でなされた身代わりの死

 多くの人は、十字架の上で血だらけになったイエス・キリストを誤解しています。それでキリストのことを邪魔者扱いするのです。しかし、イエス・キリストは宗教の開祖でもなければ、人類愛の模範者として死んだのでもありません。あなたの罪を負って、身代わりの死を背負った救い主なのです。あなたを酷い結末から救うために傷だらけになって死んでくださったのです。このキリストの身代わりのゆえに、あなたのいかなる罪も赦されるのです。

イエスの復活がもたらす希望

 第二に、この方は死んでくださった方、いや、よみがえられた方、とあるようにこの方は復活した方なんです。
 私は先日、ご主人をなくされた方からお手紙を頂きました。ご主人が一日の大半を過ごされた書斎に入ると、胸がキリキリと痛み出し、その場に倒れそうになるのを抑えられません。死は確かに憎むべき神の敵だ、と思いましたって書いてありました。まったく同感ですね。死はなんと人間を粉砕し怯えさせ、悲しみのどん底に叩き落すものであるものでしょう。しかし、朗報があります。キリストは死んで三日目に復活なさいました。これによって死が打ち破られたのです。誰でもキリストを救い主として信じ受け入れた人は、やがてキリストが再び来られる時に、体がよみがえらされて天に帰ることが出来るのです。

ジョージ・マクドナルドの言葉

 ジョージ・マクドナルドという人はこう言いました。「もし、神の子が死んでよみがえったと信じるなら、あなたの将来は人生という丘の向こうから永遠に沈まない太陽が昇る夜明けのようだ。そのような希望は、最高の想像力に恵まれた詩人の心にさえ思い浮かばない。」クリスチャンの人生の丘の向こうにあるのは、絶望と地獄ではありません。復活と天国です。終わりよければ全てよし。人生の結末に復活と天国を用意されているということほど、人を奮い立たせる約束はないと思うんですね。

神ご自身のみを見上げる自由な人生

   第三に、よみがえったキリストはあなたのことを神にとりなしてくださっている、ということです。そしてあなたの心がいつも神に向くように祈り、神の力がいつもあなたを覆うように願い、力を尽くして執り成してくださっているというんです。そして、この神に心向けて生きる人生は、本当に自由な人生なのです。

カウンセラー適正テスト

 ある方が必要に迫られ、カウンセラーを目指して勉強することになりました。ところが、門を叩いたその先生は、けんもほろろに「やめとけ、やめとけ」と言って取り合ってくれないのです。それでも頼み込むと、カウンセラーが聞かせられる話というのは暗い話ばっかりだ。暗い話を聞き続けていると、こっちまでやりきれなくなる。そんな不幸な仕事をあなたに背負わせたくない、と言って断られるんです。それでもなお頼み込むと、自分より不幸な人の話を聞いていると、実はちょっとほっとすることがある。この人よりかは私はましだ、と思うことがある。そんな人の弱みをみてほくそ笑むような仕事をあなたはやりたいと思うのか、どういうつもりなんだ、と言って断るんですね。それでもお願いします、と頼んだら、適正テストを受けさせられたそうです。そしてその結果、もっともカウンセラーに向いていないと言い渡されてしまうのです。

本当に自由な人

 しかし、彼は諦めませんでした。どうしてでしょう。神が今、この学びをするようにと自分を召してくださっていると確信していたからです。それで、人間の経営者の言葉に、いちいち傷つかずに粘ることができたんですね。人間の言葉に傷つく人は、人間の言葉を偶像にしている人です。人に自分を支配させている人です。しかし、神だけをあがめる人は、人間に失望したくらいでは倒れません。彼の神は人間ではなく、あくまでも神ご自身であるからです。これを徹底して生きる人は本当に自由な人です。
 どうぞあなたも十字架にかかって死んだ方。否、よみがえった方。いや、よみがえってまもなくお越しになるキリストを信じ、まことの神さまに立ち返ってください。心からお勧めしたいと思います。

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