新約聖書
「皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。」
(使徒の働き4:10)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.585 2011年6月12日

「死を打ち砕いた復活のキリスト」

おはようございます。高原剛一郎です!

 今、日本で一番マスコミから袋叩きにされている会社は、何と言っても東京電力です。福島第一原発の事故を起こしたからです。事故といっても通常運転中のミスではなく、地震と大津波で電源が落ちたことによる事故なんですね。もし津波がなかったならこんな事故にはなっていませんでした。また東京電力は津波に対しても、ある程度の対策をしていたのです。というのは国が認めた原発建設許可証での津波の評価は、3.1メートルだったというのです。これとは別に土木学会が5.4メートルという津波の高さを見積もったので、東電は大事を取って最大5.7メートルと想定し、さらに二倍の余裕を見込んで10メートルの高さに建設したのです。

大津波の14メートル

 ところが、今回の大津波は14メートルでした。想定の3倍の高さでやってきたのです。東電の社長が想定外だったと言うのも無理がない面があると思います。しかし、いつかは大地震と大津波が来ると言われながら、この程度の準備しかしていなかった、まだまだ来ないと高をくくっていたという点で徹底的に糾弾されているんですね。
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私たちの備えは万全でしょうか

 しかし、私たちもまたこの東京電力と似たり寄ったりの構えで人生を生きているように思うのです。それはいつかは必ずやって来る死という津波に対して、まともな準備もないのに死なんてまだまだ先の話だと、高をくくって過ごしているからです。地震や津波の天災と、死という個人的現実には似ている点があると思います。どちらもいつかは必ず来ると分かっているのですが、その日がいつなのかは前もっては分からないということです。前もってその当日が分からないからといって、必ずやって来るものに備えがなかったことをあれほどマスコミから攻撃されるとするなら、死に対する備えもなしにその日まで何となく生きるということも、また、のん気すぎることだと言われても仕方がないのではないかなとも思うのです。

パーフェクトな備え

 どうして死に対する備えをしないのでしょうか。そんなものはないと諦めているからではないでしょうか。しかし死への備えはあるのです。しかもパーフェクトな備えがあるのです。それはイエス・キリストによる救いを受け取ることなのです。なぜなら、キリストは今から二千年前、死後三日目に復活することで死を打ち破ってしまわれたからです。聖書の中にこんな言葉があります。

「皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。」

キリスト復活の目撃者証言

 これはペテロというキリストの一番弟子が語ったメッセージの一部です。その内容を一言で言うなら、キリスト復活の目撃者証言ということなんですね。ところで彼は一体、いつ、どこで、誰に向かってキリストの復活を語ったんでしょう。キリストが十字架処刑されて間もなく、キリストの処刑場の目と鼻の先で、キリストの処刑を決定した人々に向かって語っているのです。「神はイエスを死者の中からよみがえらせたのです」とキリストが処刑されてから、何百年も何千年もたってから語ったのではありません。処刑されてほどなく間が空いていないときに語ったのです。

人々の記憶が生々しく残っているとき

 何百年もたったらその時の状況証拠を確認することはできません。そういう中ではどんな荒唐無稽な話も作り出せます。同時に確証を取れませんから、神話や伝説のレベルで終わってしまうんですね。ところが、ペテロは人々の記憶の中に、イエスの処刑がまだ生々しく残っているときに、しかもその処刑されたエルサレムの街中で、復活について詳しく語ったのです。もしペテロの語ってる内容が、嘘偽りや誇張されたものだったら、すぐに反論されてしまいます。なぜなら、キリストが葬られていた墓も目と鼻の先にあったからです。しかし、墓の中は空っぽでした。よみがえられたからです。

復活の証人たちの不思議

  さらにすごいことは、ペテロが直接語っている相手が、イエスの処刑を決めた当時の指導者たちだったということです。彼らの前に、のこのことイエスの弟子が姿を現すことは、この上もなく危険なことでした。イエスの残党として捕らえられ、、イエスと同じ目に合わされる可能性があったからです。死を覚悟しなければとても出来ないことです。しかし、ペテロを初めとするキリストの弟子たちは、迫害、弾圧、拷問をものともしないで、正々堂々と絶対的な権力者の前に姿を現し、キリストの復活をこの目で見たのだと宣言するのです。

人間嘘のために命をかけられない

 このような勇気は、一体どこから湧いてくるんでしょう。この潔さのルーツは、一体何なんでしょう。それは本当に復活のキリストと会ったということ以外には考えられないのです。彼らの語るキリストの復活が、本当にあったことで、嘘なのではないとしか考えられないのです。なぜなら、人間は嘘のために命をかけることはできないからです。キリストは確かに歴史的事実としてよみがえられました。そして、誰でもこのキリストを信じるなら、たとい死んでも永遠の命を得て、魂は天国へ行き、また肉体もキリストが天から再び来られるときに、よみがえらされるのです。すなわち死に打ち勝つことができるんですね。もし死が恐れるに足らないものであるとするなら、私たちは死から逃げるのではなく死と向き合うことができるようになります。そして死と向き合うことは、人生を二つの意味で豊かにします。

死と向き合うことのメリットとは

 第一に、死は人生に締め切りがあることを意識させてくれます。人生はいつまでも続かない。この世の人生は一度きりで、時間的にも限度あるものだ。だから、私はこの限られた時間の中で何をし、何をしないでおくかを仕分けてゆくことが、できるようになるのです。本当にこの私が今生きてる間にしなければならないことと、私がしなくても良いこと、どうでもよいことの区別がつくようになるんですね。そして、人生を何となく過ごす時間から、何か価値あることを成し遂げる機会へと、変えていくことができるのです。こういうことは、死と向き合って初めて生まれてくる意識です。死が恐ろしい問題である時には、出来るだけ考えないようにするので、人生に締め切りがあることを見落としてしまいがちなんですね。

死後に必ず正当な報いを受ける

 第二に、地上の人生の質が変わるのです。バカ正直に生きることがバカバカしくなくなるのです。なぜなら、この地上の人生を見守っているイエス・キリストが死後の世界において、正当なる報いで報いてくださるからです。天国での正当なる報いという感覚は、地上で私たちに損得を超えて一貫した生き方を導く動機となるのです。
 どうぞあなたのために十字架の上で死に、三日目によみがえらされたイエス・キリストを、ご自分の救い主として信じてください。心からお勧めしたいと思います。

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