旧約聖書
「主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます。私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。」
(イザヤ書26:12)

Default Text

「聖書と福音」高原剛一郎

No.591 2011年7月24日

「永遠の世界で自分をはかる」

おはようございます。高原剛一郎です!

 私は高校を卒業してから二年間新聞配達をしていました。その頃大変困ったことが一つあったのです。ポストの前に大型のしかも大変に気性の激しい犬をつないでいるお宅があったんですね。少しでもポストに近付こうとすると犬は恐ろしいうなり声で私を威嚇するのです。犬にかみつかれるのを恐れてポストに近付かなければ配達は出来ません。ポストに近付くためにはとても危険な目にあわねばなりません。私は毎回ドキドキしながら一瞬で新聞を放り込む技を磨いたものです。

カット

 ある日のことです、どういうわけかポストの前にあの犬がいないんですね。もしかしたら死んだのかもしれない、まぁいずれにしても私にとってはその方がいいと心安らかにポストに新聞を入れたその時です。鎖の外れた犬がうなり声をたてて私の後ろに身構えているではありませんか。瞬時に私もウー!っとうなり声をたてながらゆっくり後ずさりしてその場を逃れました。あのときの恐怖を今でも私はよく覚えています。その恐怖を一言で言うならば、いないと思っていたものがいたという恐怖です。いないはずの者がいた。無いはずのものがあった。存在しないと思い込んでいたものがしっかりと存在していた時の驚きとうろたえです。


死んだ後の世界はあるのか

 ところで今日多くの人は死後の世界なんかない、天国も地獄もない、神なんかいない、死後の裁きなんかないと思って生きています。その理由は見えないからっていうんですね。しかし見えないのは自分の狭い視野から外れているだけかもしれません。「見えない=存在しない」とは言えないのです。そしてこの世においても、無いはずのものがあったり、存在しないと思い込んでいたけれども実はしっかり存在していたという経験を私たちは日常生活で持っているのではありませんか。聖書は私たちにはっきりと告げています。「人間には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっています」と。つまり今見えている世界だけがすべてではなく死んだ後正しい神の審判とその審判に基づく世界があると宣言しているのです。私はこの死後の世界の存在を聞いた時、初めは恐れ戸惑いまた疑問にも思いましたが今ではとっても合理的でそうでなければならないとすら思うようになっています。

不公平だけで終らない

 なぜなら第一に死後の世界の存在はこの世の不公平、不公正、不条理に対する完全な答えになるからです。この世界には健康で生まれてくる人もあれば病気を持って生まれて来る人もいますね。真面目にこつこつ働いているのに評価されない人もいれば不正を行いながら成功者としてもてはやされている人もいます。何も悪いことをしていないのに投獄されたり、他人の罪の濡れ衣をかぶらされたりした、そういう人もいるかと思うと、たくさんの人々を虐殺したり、弾圧したり、迫害を加えながら贅沢の限りを尽くし、かえって恐れられのうのうと生きている独裁者たちもいるんです。

神は正しく裁かれる方

 この世の中にはどう考えても不公正な不公平な現実が横行しているんですね。そういう現実を見たときこれはおかしいぞ、こんなことがあってたまるもんかという苛立ちやストレスがかかってくるんじゃないでしょうか。そしてそのストレスの原因は不公正が不公正のまま終わると考えるからです。この世での処遇ですべてが決まると思うからですね。しかし人生には続きがあるんです。本当の帳尻合わせは死んだ後、神の前においてなされるのです。そして神は正しく一人一人を裁かれる方なのです。

永遠の世界と人のために生きる動機

 第二に死後に永遠の世界があると考えた時、初めて人生を自分以外の者のために生きる動機というものを得ることができるからです。今から二百年ほど前アルフレッド・ノーベルという科学者がいました。彼は友人が作ったニトログリセリンという爆発性物質を改良しダイナマイトを発明するんですね。それまでニトログリセリンは狙って爆発させることが出来ず、いつ何時爆発するのか分からないという大変に危険なものだったのです。ノーベル自身の弟もこの実験中に命を落としています。しかしダイナマイトの発明により人類は安全な爆発物を手にすることができるようになりました。そしてノーベルはこの発明のおかげで巨万の富を築きあげるのです。

ノーベル賞の創設

 ノーベルが55歳の時兄のルードヴィという人が亡くなるのです。その時ある新聞は誤ってノーベル自身が死亡したという記事を載せるのです。しかもそこには次のような文章が続いたのです。「アルフレッド・ノーベル博士、可能な限り最短時間でかつてないほど大勢の人間を殺害する方法を発明し富を築いた人物が昨日死亡した」。彼はこの自分の紹介記事を読んだとき衝撃を受けるのです。もし自分が今死ねば私は大量殺人兵器で自分の欲望を満たした人間として記憶されるのか。彼は熟慮の末に手に入れた富の使い方を転換したのです。その一つがノーベル賞の創設だったのです。

神の御前における審判に備えて

 彼の人生の向きを変えさせたものって何でしょう。それは死後自分に向けられる後世の人々の評価だったのです。これは彼にとって永遠の評価、永遠の審判のように感じたんですね。そして永遠の審判に耐えうるものに代わりたいと真剣に人生の再検討をするようになったのです。しかし後世の人類の評価より、より決定的絶対的な評価というものがあるのです。それが生ける神の審判なのです。私たちが生まれてから死ぬまでの間私たちがしたこと、口にしたこと、心の奥底に思ったそのすべてのことについてご存知の神の前に一人一人が丸裸で立つときがやってくるのです。その神の審判には過不足はないのです。ではこの審判で地獄ではなく天国に至る審判は何によって得ることができるのでしょう。どれだけ成功したか、どれだけ有名になったか、どれだけ人助けをしたかによるのでしょうか。いいえ違うのです。すべての人はどんな成功によっても、どんな人助けによっても、打ち消すことができない罪を神の前に負っているんです。聖書はこういっています。

「主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます。私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。」

神が備えた救いを受け取る

 私たちがこの世にオギャー!と生まれた時まず産湯で洗ってもらいましたね。次に布でくるんでもらいました。それからおむつを付けてもらいました。そして何よりもお母さんの胸に抱かれたのです。そしてベビーベッドに寝かされましたね。これら赤ちゃんに必要なものは赤ん坊自身が自分で用意した物ではありません。赤ん坊は親によって備えられた物をただ受けたのです。天国に神の子供として生まれるために必要なことは立派になること、良いことをすること、人助けをすることではなく、神が備えたイエス・キリストという救い主ををただ受け入れるということなのです。
 どうぞ今このキリストを信じ受け入れてください。あなたのために神が備えてくださった救い主です。心からお勧めしたいと思います  

コーヒーカップ
時計
MILANの消しゴム