新約聖書
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
(ヨハネの福音書1:14)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.609 2011年11月27日

「人となられた『ことば』なる神」

おはようございます。那須清志です!

 ある時、アメリカ人の接待を頼まれて一緒にレストランに入りました。彼はステーキ定食を頼んだのですが、そのとき肉の焼き方を指定しました。血が少し残っているような軽い焼き方「レアにして。」と言ったのです。しばらくしてウェイトレスが戻って来ました。シェフからレアはできないと言われたようです。私はピンときました。「ははあ、すぐに火が通ってしまうほど薄い肉なんだなあ。」そこで彼に「ここは日本だからアメリカで出るような大きな肉ではないよ。」と説明しました。彼は怪訝な顔をしていました。しばらくして、ステーキ定食が来てびっくり。彼なら一口で食べることができるほどの大きさの肉だったのです。

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 彼にとって「ステーキ」というのは大きな肉の塊をイメージしたのです。アメリカでは何でもサイズが大きいですね。日本人はそこまでは考えないでしょう。同じことばでもそれぞれが持っているイメージによってかなり受けとめ方が変わっていくんですね。
 実は聖書を読む上でも同じような問題が起こることがあります。聖書に「神」ということばがたくさん出てきます。でも多くの日本人がイメージするような「神」ではありません。木や石でできた偶像や人間の力を越えた自然界のことではないのです。また、オカルトや魔術とも関係ありません。聖書が語る神は、目には見えない霊的な存在ですが、この世界を造られ、保っておられ、聖書を通じて人間に祝福をもたらす方です。
 新約聖書「ヨハネの福音書」は次のようなことばから始まります。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネの福音書1:1)

創造主の「ことば」によって世界は造られた

   不思議なことばですね。創造主なる神は「ことば」なる方だというんです。この世界が神によって創造されるとき、ことばで命令するとそのようになったと書いています。ちょうど軍隊で上官が部下に命令してそのとおりになるように、自然界に対して神が命じられるとそのようになったというのです。続きにこう書いています。

「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(同1:3)

 このすべてを造られた方から人間は離れてしまったのです。この世界を管理するものとして人間は造られ、この地に置かれました。マンションの管理人をしている友人がいます。彼によると、マンションがきれいに保たれるのは、ひとえに管理人や管理組合がしっかりしているかどうかにかかっています。この世界は、管理人なる人間がいい加減になったことから、大きく歪められたと聖書は語ります。残念ながらそれが自然災害の原因の一つにもなっているのです。この罪にまみれ自業自得のような人間に、神は心を留め、何とか回復させたいと願っておられます。これこそ福音、グッドニュースです。私たちが絶望しなくてもいい、あきらめなくてもいい、希望を持てる理由があるのです。聖書は次のように続きます。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(同1:14)

恵み深い創造主がなされたみわざ

 このみことばからイエスがなされた三つことを考えたいと思います。
 一つめは、「ことばなる神が、私たちの間に来られた」ということです。これは、人の姿をとってこの地上に来られた神、イエス・キリストのことを言っています。
 先日、仙台へボランティアに行ってきました。今回行ったのは、仮設住宅で臨時の喫茶店を開き、お茶やおかしを振る舞いながら被災された方とお話をするというものでした。話は自然に3月11日に起こったあの地震と津波のことに及びます。何度も映像で見て、記事で似たような話を読んできました。しかし、あの過酷な状況を間近に経験し、まさに奇蹟的に生き残った方々からの生の証言は衝撃的でした。私はただただ耳を傾けるだけです。泥出しのような肉体労働ではありません。目に見えてきれいになったとか、何か新しいものを作ったというようなものでもありません。でも喜ばれるのです。人の思いが「ことば」となって伝えられるとき、それも耳を傾けて聴いてくれる人間が目の前にいるとき、人は癒されるんだなあ、とつくづく感じました。

人の姿をとられて地上に来られた創造主

 私たちの魂を造られた神は、私たちよりはるかにまさって彼らのことを気遣っておられます。そして、神は私たちにも目を留めておられるのです。神は人間のことを心配するあまり、一度人の姿をとられてこの地上に来られたと聖書は語ります。神はすべてを御存じな方で、地上に来なければ地上のことがわからないわけではありません。しかし、来られたのです。同じ人となって人と交わるためです。私たちは大阪から行って歓迎されましたが、他のボランティアたちはアメリカから来ていました。けれども神様はこの地上の遠い所から来られたのではなく、全く違う霊的な世界から、罪にまみれたこの世界に来てくださったのです。

神の栄光と恵みを示したイエス・キリスト

 二つめに、イエスは神のすばらしさを存分にあらわした、ということです。「私たちはこの方の栄光をみた」とあるように、イエスの完ぺきな生涯はさまざま記録を見ても明らかです。初対面の人に、短い間立派に見せることは簡単でしょう。しかし、弟子たちとは3年半、家族とは30年間、イエスは寝食を共にしましたが、彼らは一様に「イエスは完全な生涯を送った」と証言しています。それも自分たちの命をかけて証言していました。敵であってもイエスの罪を指摘することはできませんでした。イエスが死刑になった罪状は「自分を神と等しくした」という冒涜罪でした。しかし、イエスにしてみれば「神と等しくない」という方が嘘になったのです。
 三つめに、イエスは神の「恵みとまこと」を明らかにされたということです。イエスは人間と話をするためだけに来られたのではありません。人間の罪を解決するために来られました。「まこと」というのは「真理」とか「真実」という意味です。神はきよい方で、罪をごまかしたり、うやむやにされる方ではありません。人間の罪を背負って十字架にかけられ、人間の罪の身代わりに死んでくださったのです。私たちの罪に対する公平で真実な裁きはすでに執行されました。そして、そのことを明らかにするために、イエスは三日目に復活したのです。
 私たちは話を聞いてもらうだけでも慰められ、穏やかにされるものです。しかし、神は私たちのことばに耳を傾けられるだけではなく、最終的な解決策をもっておられます。是非みなさんもイエス・キリストを信じて、神の恵みを受け取ってください。心からお勧めいたします。

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