新約聖書
 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」 (ルカの福音書2:10-12)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.612 2011年12月18日

「人類再生の実行者イエス・キリスト」

おはようございます。高原剛一郎です!

 私は先日、幼稚園を巡回する移動動物園の様子をテレビで見ました。それは子供たちにとても人気のある動物園なんですね。と言うのは、赤ちゃんのヤギやウサギやハムスターなんかを抱っこすることが出来るんです。さて、子供たちが動物に触れる前に係の人が言った一言はとても印象深いものでした。「皆さん、小さい動物を抱くときには座って抱いてやってください。動物は小さいからみんなが立ったままで抱っこすると、まるで高いビルの上にいるように感じて怖がるからです。小さい動物と友達になるには身を低くかがめなければなりません。」いやあ深いなあと思わず私は感心しました。なぜなら、これこそはクリスマス・メッセージの真髄をつく真理だからです。

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 キリストは偉大なる神のあり方を捨てて、人間の赤ん坊としてこの世に来られたのです。それは神の前に小さな小さな存在である人間と繋がるためなのです。さて世界で最初のクリスマスの日、まだ夜も明けぬ真夜中に、野にいた羊飼いたちは御使いからキリストの誕生を知らされます。その時に語られた言葉が聖書に次のように書いてあります。 

「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』」(ルカの福音書2:10-12)

ダビデの町で生まれた救い主

 さて、ここにイエス・キリストの誕生が素晴らしい喜びの知らせであるという三つの理由が書いてあります。第一にダビデの町で救い主が生まれたということです。なぜこれが素晴らしい知らせになるんでしょう。実はこれこそは神が旧約聖書でかねてから約束していたことが実現し始める合図であるからです。実は聖書というのは二つのパートに分けることが出来るんですね。旧約聖書と新約聖書です。旧約聖書はキリストが来る前に書かれた聖書です。新約聖書はキリストが来た後で書かれた聖書です。この旧約聖書の中で、神は罪のためにめちゃくちゃになった人類を再生するプランを予告されるんです。その人類再生計画の実行者はダビデの町で生まれるという約束が書いてあるんですね。イエス・キリストがダビデの町で生まれたという事実は、神の人類再生プランがいよいよスタートした合図なんです。

破壊された物を生まれ変わらせた知恵者たち

 私は先日とても勇気の出るニュースを見ました。実は今、東北地方で大変悩ましい問題があるんです。それは津波被害で生じた瓦礫の山なんですね。一瞬にして30年分のゴミが山のように積まれたままになってるんです。瓦礫の山なんですよね。ある土木工学の教授が破壊されたコンクリートの瓦礫の山を見ながら、これを何かに使えないかなあ、もう一度街を再生するための建材として再利用することはできないだろうかと考えたんです。しかし大きな問題があったんですね。コンクリートが海水をかぶっているために大量の塩分が残量してるんです。塩分の混じったコンクリートで建物を建てるとコンクリート粒子が膨張して、築10年もしないうちにひびが入るそうです。ところが大林組というゼネコンの研究機関が、ある物質を加えることによってひび割れを防止できるということを発見するんです。しかもこの方法で作ると真水で作ったコンクリートより1.4倍も強度のあるコンクリートになるということが分かったんですね。これが分かった仙台市はがぜんやる気が出てきます。一度は瓦礫となった物を再利用して、防潮堤や壊れた橋げたを作ろうっていうんですね。なぜなら普通に作るより強い物ができるからです。私もこのニュースを聞いてとても元気づけられました。一度はゴミになってしまった物、破壊されてしまった物が、知恵者たちの介入で見違える物に生まれ変わり、真に役に立つものになったという話は実に素晴らしいです。

聖書の再生プロジェクト

 これは聖書の語る再生プロジェクトを思い起こさせてくれるものです。神様は罪によって破壊されてしまった人間を立て直し、その傷を癒し、罪を赦し、崇高なことに役立つものに引き上げ、死をも乗り越える存在に変えるためにイエス・キリストを遣わしてくださったのです。そのキリストによる救いの合図がこのダビデの町で生まれるということだったんですね。

飼い葉おけに寝ている赤ん坊

 第二に羊飼いたちに与えられたしるしは、飼い葉おけに布にくるまって寝ている赤ん坊の姿でした。実は「飼い葉おけ」と訳されている言葉は「小屋」という意味があるんです。この当時、家畜を飼った小屋は天然の洞穴でした。これらの洞穴はもう一つ使い道が別にあったんですね。それは墓場だったんです。当時のユダヤ人は遺体を布に包んで天然の洞穴の中に安置したんです。そしてここでは赤ん坊のイエスが布に包まって天然の洞穴に寝かされているんです。それは当時の人の目には墓場に置かれた遺体を連想させるものでした。どうしてこの光景が喜ばしい知らせになるんでしょう。イエス・キリストは人々から喝采を受けるためではなく、人々の罪をたったお一人で背負い、十字架にかかって死ぬために来られたということがこの姿の中に暗示されているからです。罪のない方が死んでくださることで、いかなる罪人も赦されるという道が開かれるんです。私たちに命を与えるために偉大なる天国を後にして来てくださったキリストの姿の中に神様の愛が表されています。この愛の故にすばらしい喜びの知らせとなるんですね。

私たちの主になるために来られたキリスト

 第三にこの方は私たちの主キリストになるために来られたので素晴らしい知らせなんです。
 私は先日NHKの番組で「サードマン現象」を扱うものを見ました。「サードマン」というのは「第三の人」という意味です。実はこの世界には崩壊するビルの中から一人脱出できたり、深海の洞窟の中で命綱を失ったのに戻って来ることが出来たり、宇宙空間でトラブル続きのステーションで落ち着きを与えられたりして、九死に一生を得た人々が沢山いらっしゃるんですね。彼らは皆、異口同音に「ピンチの時、誰かの声に導かれて平安を取り戻し、すべきことが分かり、正しい選択を奇跡的に積み重ねて脱出することが出来た」と証言する人々です。この彼らに声をかけた存在をサードマン、第三の人と呼んでるんですね。

絶体絶命に陥った時のサードマン、キリスト

 ところで人は絶体絶命のピンチに陥った時、誰もがサードマン、導き手、自分を超えた至高の存在、救世主を求めるのではありませんか。声は聞こえなくてもあなたの人生の中で正しい選択を導くリーダーを必要としていませんか。多くの人にとって自分のリーダーは自分自身です。しかし自分を超える本物のリーダー、神ご自身を監督として、コーチとして、導き手として必要としているのではないでしょうか。キリストはあなたの主、リーダーとなるためにこの世に来られたのです。どうぞこのキリストを自分の心のうちにお迎えください。心からお勧めしたいと思います。

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