新約聖書
「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。』」
(ヨハネ9:3)

Default Text

「聖書と福音」高原剛一郎

No.631 2012年4月29日

「幸いへの選択」

おはようございます。尼川匡志です!

 先日、私は長年住み慣れた大阪から、お隣の奈良県に引っ越しをしました。新しい住まいの環境は実に素晴らしです。川が流れ、山がすぐそばにあり、緑が溢れ、小鳥がさえずり、朝の空気がとてもすがすがしいのですね。田舎好きの私には申し分のない環境です。でも一つ問題があります。それは、花粉の量が大阪よりも多いことなんです。ひどい花粉症の家内にとって、これは大変なことです。朝から晩までくしゃみと鼻水に悩まされているんですね。私は、医者に行くように勧めましたが、忙しいのか、なかなか病院には行きません。そしてその結果、涙と鼻水に今も苦しめられているのです。病院へ行けば全て解決とはいきませんが、少しは楽になると思うのです。


カット

 さて、私たちの人生は、選択によって決まります。過去の選択が、今の私を造っています。ある時私達は、人生の岐路に立ちます。右に行くのか、左に行くのか、どちらの道を選択するのも自由です。しかし忘れてはいけない事が一つあります。それは、道の選択は、自由ですが、それを選ぶことによって、その道で起こるすべての事を引き受けなければならないという事です。家内は、医者に行く自由も、行かない自由も持っています。どちらでも選択できます。しかし、行かないという選択をすれば、涙と鼻水に苦しむという結果も引き受けなければならないのですね。私達が、もし、でこぼこの道を選択したら、その道を歩くのに苦労します。もし行き止まりの道を選択したら、はじめは良くても、いずれ進むことができなくなります。これは、選択の結果です。逆に、一見危なそうな道でも、ちゃんとした『道しるべ』がある確かな道なら、その道を選択する事によって、安全に目的地につく事が可能になるのですね。

日常生活の中での「選択」

 私達は人生の岐路で選択するだけではありません。実は、もっと日常的な事でも多くの選択をしています。例えば「腹を立てるか立てないか」という事も一つの選択だといいます。私達はある時イライラさせる出来事や不愉快な事に出会います。すると腹を立てます。でもこれは、「選択」だというのですね。「そんな選択はした覚えがない。条件反射の様なものだよ。」と言われるかもしれませんね。確かに不愉快と思う感情は、反射的なものかもしれません。でも腹を立てるという行動に出るか否かは、相手によって選択をしています。もし相手が会社の得意先の方なら腹を立てるでしょうか?しかし、それが、自分の夫や妻や子供なら、私達は簡単に腹を立てる事を選択するんです。一見感情の領域に思える事も、自分の意志によって、どちらにするかを選択しているというのです。その選択によって、生れる結果は大きく変わってしまうのです。もし、誰かの言葉に「怒り」を選択したら、その後に険悪な空気が流れます。「怒らない」という事を選択したら「平和」な空気が保たれます。私達は自分の未来を変える事ができるのです。過去の選択をやり直す事はできません。しかし、これからの選択によって、未来は変わるのです。自分の意志によって決断し、道を選択すれば、間違いなく未来は違ったものになるのですね。
 聖書にこの様な箇所があります。

『またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問していった。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。

 先ほど、人生は選択によって決まると言いました。しかし人生には自分で選択する余地のないことや、どうする事も出来な事が起こるものでもあります。その代表的なものが「誕生」や「死」といった、命にかかわる事です。例えば、私達は自分で選択して、男になったわけでも女になったわけでもありません。選択の余地なしに、この世界に誕生したのです。これはある意味で、私達の命が自分の主権の元にあるではなく、また私達は自分の命を所有しているのではないという証拠のように思います。私達の命は与えられたものなのです。つまり人間は、自分で生きているのではなく、生かされているのです。その命の主権者を聖書は「神」と言っています。
 

自分の選択によって未来を変えた男

 今お読みした聖書の記事に一人の男性が登場します。彼は盲目というハンディを負って生まれてきました。勿論彼がそれを望んだわけではありません。この男性が背負ったハンディは、今から、2千年前の世界では、想像もできないほどの苦労だったと思います。では、彼のようにハンディを持って産まれた人の人生は、ただ不幸なだけなのでしょうか?聖書はそうではない。と語ります。勿論過去は変える事ができません。選択の余地のない出来事が起こり、悲しみの中に叩き込まれる事も多くあります。でも、それで、その人の人生すべてが「不幸だ」と結論付けることはできないと思うんです。この男性の過去は変えることはできません。しかし、この人の未来は、彼の選択によって、変わるんです。変える事ができるのです。
 生まれた時からハンディを持っていた、この男性が生きるためにできた事は「物乞い」だけでした。彼を見る人は、生まれた時からこんな不幸を背負わされているとは、きっと彼か、その両親がとんでもない罪を犯したに違いないと考えていました。イエスの弟子たちも同じ様に考えていました。だから「この人が罪を犯したのですか、それとも、両親ですか」と、イエスに聞いたのです。しかしイエスは答えます。「神のわざがこの人に現れるためです」と。聖書の語る神は、人間が不幸に閉じ込められ、絶望して生きていく事を望んではおられないのです。幸いな人生を歩むことを、心から望んでおられるのですね。

祝福を用意して待っておられる創造主

 先ほどの聖書の箇所の続きにこの様な箇所があります。

 「イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥をつくられた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。『行って、シロアムの池で洗いなさい。』そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。」

 イエスは不思議な事をされました。唾で泥を作って、この男の人の目に塗られたのです。そしてこう言われました。「行ってシロアムの池で洗いなさい」そして、その言葉を信じたこの男の人が、行って洗うと、なんと目が見えるようになったのです。彼の人生は一変しました。この人はイエスを信じる事を、自分の意志で選択したのです。なぜ彼は信じる事を選択できたのでしょうか?それはイエスの言葉によると思います。「神のわざがこの人に現れるためです。」

希望のメッセージを選択する

 この時まで、この男性は、自分の出生を恨み、嘆き、過去に縛られ絶望して生きていました。しかしイエスに出会って、彼は生まれて初めて、自分の未来に目を向ける事ができたのです。そして自分の人生に、「祝福の神が素晴らしい事をしてくださる」というメッセージを生れてはじめて、聞いたのです。それは暗闇の中に座っていた彼にとって、希望の光、希望のメッセージとなりました。彼は肉体の目が開かれるその前に、心の目が開かれていたのです。希望のメッセージを聞きそれを信じる事。その選択が彼の未来を大きく変えました。聖書には希望のメッセージが溢れています。あなたも、ぜひこの希望溢れるメッセージを聞き、信じる事を選択してみてください。あなたの未来は、変わります。

コーヒーカップ
時計
MILANの消しゴム