新約聖書
「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」
(第二テモテ2:8)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.639 2012年6月24日

「イエスの復活と私との関係」

おはようございます。那須清志です!

 今年はオリンピックイヤーですね。7月から開催されるロンドン五輪の組織委員会理事を務めるのがジョナサン・エドワーズです。彼は、陸上競技、三段とびの選手でした。彼が1995年に打ちたてた18m29cmという世界記録はまだ破られていません。彼のニックネームが「スクランブル交差点を三歩で渡る男」ですから恐れ入ります。同時に熱心なクリスチャンで、日曜日の試合に出なかったので遅まきのデビューだったと言われています。2000年のシドニー五輪のときについに金メダルをとりました。オリンピック4度目の挑戦、34歳で成し遂げた快挙です。その後、けがのため選手生命が危ぶまれましたが、再びフォールドに立ちました。こういう時マスコミは「奇蹟の復活を遂げた」と表現するんですね。確かに「復活する」ってすごいことです。

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 ところで、みなさんは聖書の中に書かれた「イエスは十字架の死後、三日目に復活した」という事件をご存じですか。今日は聖書が語る最大の不思議、同時に最大の希望である「イエスの復活」について考えていきましょう。


聖書が語る最大の不思議

 第一に、「イエスの復活は単なる蘇生ではない」ということです。
 今から10年ほど前、愛知県で起こったことです。50代の女性が自宅で倒れているのを帰宅したご主人が見つけました。救急車で病院に運ばれましたが、意識はなく、心肺停止の状態でした。一旦、心臓がわずかに動き始めましたが、再び停止。30分間にわたって処置を続けましたが回復せず、医師は家族に死亡を告げたんです。親族は霊きゅう車を依頼し、通夜や葬儀のための手配もしました。ところが、20分後、病室の家族が女性の呼吸に気付き、呼び戻された医師が自発呼吸を確認したというのです。病院は「ご家族には迷惑をかけたが、よかった。これまで聞いたこともないケース」と話していたそうです。
 この出来事は不思議ではありますが、聖書が語るイエスの復活とは違います。蘇生した人も、いつかは亡くなります。この女性が今健在かどうか私にはわかりませんが、はっきり言えることは、いつまでも生きるわけではないということです。しかし、イエスは十字架の死後、新しい命をもって復活し、40日間弟子たちの前に現れ、天に帰ったといいます。復活したイエスを見た500人以上の弟子たちは激変しました。死を恐れず、命をかけて復活のイエスを宣べ伝え始めたのです。人間は死んで終わりではない、死後与えられる新しい命というものがあるということを語っていったのです。

多くの人々の生き方を変えた事実

 さて「かぐや姫」の話はを日本人であればだれでも知っていますね。竹から生まれたかぐや姫は最後は月に帰って行くという話です。1000年以上も語り伝えられていますが、この話が本当の話であると信じている人がいますか。ましてや、自分の命をかけて「かぐや姫の話が本当である」ということを語っている人など聞いたことがありません。しかし、イエスの復活については2000年間語り伝えられています。イエスを裏切ったユダを除く十一人の弟子たちは、このことを宣べ伝えたために迫害されました。苦難を受けた後、老衰で亡くなったヨハネ以外は、みな殉教したのです。それも壮絶な殺され方です。十字架にかけられたのが6人、剣で殺されたのが2人、槍で突き刺され、矢で射抜かれて殺されました。でも彼らは主張を曲げませんでした。死後の世界があることを体を張って証明したのです。

預言の成就としての「救い主の復活」

 第二に、「イエスの復活は単なる思いつきではない」ということです。
 イエスは生前から、自分が指導者たちの手に渡され、嘲られ、ののしられ、最後は十字架にかけられること、そして三日目に復活することを予言していました。自分の死に方を予言するのは比較的簡単かもしれません。極端に言えば、予言した方法で自殺すればいいのです。好き好んで十字架にかかる人はいないと思いますが、いざとなれば十字架刑になるような犯罪を犯せばよかったのです。でも、「復活」の予言についてはそうはいきません。死んだ後のことは自分でどうすることもできないからです。実は「復活」の預言は、イエスが旧約聖書から引用した救い主に関する預言だったのです。
 近々公開される映画の予告編をテレビなどで見ることがありますね。おいしい部分だけをまとめて流して、映画の宣伝をするわけです。ちょうど旧約聖書は、救い主の予告編のようなものです。人間を罪から解放し、永遠のいのちをもたらす救い主の生き様を預言の形で語っていたのです。その数は350か所にも及びます。その預言の一つが「復活」だったんです。聖書から見れば、死んでそのままの人は「救い主」ではありません。この地上にりっぱな人、尊敬に値する人は多くいますが、皆死んでしまいました。救い主ではないのです。ただ、死んだ後三日目に、墓を突き破って復活させられたイエスだけが、神から認められた救い主なのです。

「復活」は福音の土台

 第三に、「イエスの復活は単なる歴史上の事件ではない」ということです。
 クリスチャンが命までかけて「イエスの復活」を宣べ伝えたのはなぜでしょうか。イエスのすばらしい生き方、心打つメッセージ、犠牲的な死に様、それで十分ではなかったでしょうか。わざわざ、みんなが信じにくい「復活」を入れなくてもよかったのではないでしょうか。しかし、「復活」のメッセージは福音の付録ではありません。一部でもありません。福音の中心主題なのです。

私たちと「イエスの復活」との関わり

 それは人間に対する真面目な警告と喜びのニュースです。人間は死んで終わりではありません。イエスはそれを身をもって証明しました。神を見失い、罪の中に沈む人間は、死後神の前に出ることになります。残念ながら義なる神の前で「罪なし」と宣告されるものは誰一人いません。そこで神は、永遠の滅びから人間を救うために救い主を与えてくださいました。それが、イエスです。十字架の上で私たちの身代わりに裁かれてくださって、救いの道を用意してくださいました。そして、この救いが本物であることを示すためにイエスを復活させてくださったのです。ちょうど支払いが終った時に領収書が発行されるように、罪の負債が支払い終えられたことを人間に示すために復活というレシートが示されたのです。地上の歩みだけではなく、永遠を過ごす場所について、イエスの復活はあなたと関わりがあるのです。
 是非とも神が用意してくださった、罪からの救いのプレゼントを受けとめて、神さまと共に永遠に歩むすばらしい人生に入ってくださることを心からおすすめいたします。

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