新約聖書
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
(ガラテヤ2:20)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.642 2012年7月15日

「ぶれない生き方の秘訣」

おはようございます。高原剛一郎です!

 アメリカ西海岸がゴールドラッシュで沸き立っていた頃、多くの人が一山当てようと殺到しました。そんな人々の一人に、ユダヤ系のリーバイ・ストラウスという人がいました。

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 しかし、掘れども掘れども金の鉱脈にはなかなか突き当たらないのです。疲れ果てた彼はふと周りをみた時、血眼になって地面のを掘り返しているライバル達の姿を見て、あることをひらめくのです。「この人たちのために、破れないズボンを作ろう。」なぜなら誰もがぼろぼろになったズボンでそれはそれは惨めな格好をしていたからです。過酷な肉体労働にも十分耐える、頑丈にして機能的、性別も年齢も季節も問わずにいつでもどこでも誰もが履けるジーンズはこのようにして完成したのです。みんなが金を探り求めて必死になっている時、一人違ったことをするのはとても勇気がいることでした。しかし、もしみなと同じことをそのまましていたら、みなと同じように失敗していたのです。ゴールドラッシュで成功したのは、ほんの一握りの人たちだけだったからですね。

 さて聖書の中にも、世の中の時流に押し流されることなく、ぶれない生き方をした人たちが登場します。その代表は新約聖書の大半を書いたパウロという人物です。彼は自分の人生の原動力について、こう語っています。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身のお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

 このことばの中に、キリストがして下さった三つのことが書かれています。
 第一に、キリストは私を愛してくださった、ということです。パウロは自分という人間をキリストによって愛されている人とみなして生きていたのです。そうであるとするなら、キリストが大切にしている自分をどうして投げやりに扱うことができるでしょう。
 万葉集の歌の中に、恋人を想う歌がたくさん出てきますね。

 「信濃なる筑摩の川のさざれ石も 君しふみてば玉と拾わむ」

 おそらく防人として遠い国へ出征する恋人を想って歌った歌ですね。「いとしいあなたが踏んだ石だと思ったら、私にはまるで宝石のように思えてきます。」という意味です。この歌い手の女性はその小石をながめ頬ずりし、さすりそしてうっとりします。それは川原に何十万とある砂利の一つに過ぎないんですが、恋人が踏んだ石という一点で、いとおしい宝物のように思えて大切にするっていうんですね。愛は何の変哲もない道端の石ころを何カラットのダイヤにも優る宝にしてしまう力があるんです。あなたは神に愛されている人です。たくさんある砂利石の一つではありません。神がキリストによって愛しんだ人なのです。どんなに失敗があっても、過去にどんなにひどい罪があったとしても、それでも神さまの目には尊いと見なされたものなのです。神さまが自分のことを真心から愛し、大切にして下さったと知るなら、自分の人生を粗末にすることはできなくなるのです。

十字架による問題解決への道

 第二に、キリストは私たちのためにご自身を十字架の上で捨てて下さったのです。なぜ、キリストが十字架で命を捨てることが、パウロにとって力となったんでしょう。それによって、魂のふるさとに戻る道が確保されたからです。
 今から五十年前、イギリスで大列車強盗事件が起こりました。グラスゴーからロンドンに向かっていた郵便列車が強盗団に襲われ、260万ポンドが盗まれたんです。これは現在のお金に換算すると、85億円にもなる額です。強盗団は信号を細工し、赤信号にして列車を止めたのです。運転手は不審に思い、列車から出たところを殴りつけられ失神します。この時の怪我がもとで、運転手は7年後に亡くなるのです。この強盗団の一人に、ロナルド・ビッグスという人物がいました。やがて一味は逮捕され、彼も刑務所に入れられるんですが、しかし、ビッグスは一年後に脱走し、パリまで逃亡して整形手術を受け別人になりすまし、そのままブラジルにまで逃げてしまうんです。イギリスは国家の威信をかけて彼を追跡し、ついにブラジルで潜伏生活をしているビッグスを見つけ出して逮捕するところにまでは成功するのです。しかし、国外に連れ出すことができませんでした。というのは、ビッグスはブラジル人の女性との間に子供をもうけていたからです。ブラジルの法律ではブラジルで生まれた子供の父親が外国人の場合、その父親は身柄を拘束されない、という決まりがあったのです。こうして彼は罪を犯しながら、罰を受けることもなく、仕事もしないで、毎晩バーに現れ、観光客相手に自分の脱獄体験をまるで武勇伝のようにおもしろおかしく話して聞かせていたのです。やがて彼の半生は、本になり、映画にもなり、益々頭に乗る生活をするようになったんです。

ふるさとを懐かしむ思い

 こうしてブラジル生活が約40年続き、彼は72歳になった時、彼の中に変化が生じてきたのです。どういう訳でしょうか、彼はどうしても自分のふるさとを見たい、自分のふるさとであるイギリスに戻りたいと思うようになったのです。自分の生まれ故郷に対するあこがれ、懐かしさがこみ上げてきて、どうにも止めることができません。次第に体調を崩し、心臓を患い、起きてる時にはイギリスの写真を眺め、寝てる時にはイギリスの夢を見るようになるのです。彼は病的なホームシックにかかってしまったのです。
 そしてとうとう72歳の時にイギリスに帰ったんですね。飛行機がイギリスに到着するやいなや、彼は即逮捕され、病状重い中、8年間刑務所に入れられます。そうして80歳にしてようやく釈放されたのですが、体調は優れず、弱っていくばかりだと言われています。刑務所生活が祟ったんですね。そういうことになるということがわかっていながら、それでも故郷に帰りたくて仕方がなかったのは、本当の自分の居場所を見つけたかったからだと言われています。

人間の帰るべきところとは

 ところで、人間の魂の本当の居場所ってどこでしょう。それは、魂の造り主である神さまのみもとなのです。しかし、人は神から離れ、自己中心の生き方をした罪人のために、そのままでは戻ることができないのです。ちょうど、ビッグスとイギリスの間に罪の裁きが待ち構えていたように、我々人間と天国との間には、永遠の地獄という裁きが立ちふさがっているのです。この永遠の裁きを取り除くために、キリストはご自身を捨てて下さったのです。キリストが十字架にかかって、身代わりに死んで下さった、そして三日目によみがえって下さったことにより、私たちは裁きを恐れることなく、天のふるさとに帰ることができるのです。

キリストと共に歩む人生

 第三に、この方は信じる者の心の中に住んで、共に生きて下さるのです。限界のある自分の力に頼って生きる人生は、ただただ消耗する人生ですね。しかし、全知全能のキリストがあなたの内側に宿って共に生きる人生は、自分をも、周りの人々をも豊かにする人生なのです。
 どうぞあなたもこのイエス・キリストを救い主として信じて、永遠のいのちを頂いて下さい。心からお勧めしたい思います。

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