新約聖書
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。
(使徒4:12)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.650 2012年9月9日

「唯一の救い主キリスト」

おはようございます。高原剛一郎です!

 さて、一般的に「上から目線」という言葉は不愉快な意味で使われることが多いですね。目上でない相手から見下すような態度や言葉をかけられるときに使います。よく分かってる自分が、無知なお前らに教えてやるんだぞ!と感じられるような発言を聞いたときに使われます。ところが、「上から目線」であることがとても大切なスポーツがあるんですね。それはサッカーです。優れたサッカー選手は視野に入っていないはずの方向に軽々とパスを出すことができます。まるでピッチを空飛ぶ鳥の目で見ているかのようです。サッカー解説者の柱谷幸一さんによると、実は一流選手は、目で捉えた横からの情報を上からの情報に変換する「上から目線」の持ち主なんだそうです。天から見たときに意味がある行為こそ、地上で真にやるべき価値のある行為になる。とても深いメッセージだなあと思って聞いていました。聖書の中にはこの天の神からの回答やメッセージが書かれているのです。今回はそのひとつをご紹介しましょう。キリストの弟子たちが語った言葉です。

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「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

 要するに、イエス・キリスト以外に救いはない、と断言しているんですね。いったいなぜ、イエスには救いがあるんでしょう。三つの理由があります。

罪の赦しを勝ち取られたイエス

 第一に、この方だけがあなたの罪を背負って、神の前に償いを果たしてくださったからです。私たちにとって最も必要な方は、ありのままのこの自分を丸ごと赦してくださる方であるからです。
 私には友人の結婚式でひとつ思い出があります。とある親戚が酒に酔って教会の式に出席したんです。もともと堅苦しいのが苦手な彼は、少々長い話にイライラし始めたのです。そしてレセプションのころには不満が募り、来賓挨拶の時にはなんとヤジを飛ばすんですね。長い話はもういらん、というわけです。ひな壇にいた彼は生きた心地がしませんでした。やがて別席をレストランに移して皆で移動しました。さあ、これから二次会の宴会というそのとき、例の酔っぱらった親類が車の鍵をなくしたということに気づくんです。皆手分けして鍵を探すんですが見つかりません。自分ひとりのミスのために宴会が開けず迷惑をかけていることがわかったとき、彼はすっかりしらふに戻り、気の毒なほどオロオロしながら、しきりに申し訳ながったんですね。周りを気遣うその姿を見ながら、皆はこの人の本当のよさを再発見したのです。
 過ちの自覚は、人間を正気に返らせることができるんです。しかしそのような素直な態度は、周りから責め立てられたことによって生じたのではありません。しくじったのに親切にされる中で恥入らずにはおれなくなったんですね。十字架にかかってあなたの罪を背負うキリストを通して私たちははっきり知ることができます。神は赦しの神だ、ということです。ただキリストだけが、あなたの罪の赦しを勝ち取ってくださったのです。だからこそこの方に救いがあるんです。

死の壁を突き破られたキリスト

 第二に、この方だけが死を突き破って復活された方だからです。人間を打ちのめすものは色々ありますけれど、中でも最大のものは、死ではないでしょうか。私は先日、病気で大好きなお母さんを亡くした娘さんと話をしました。お母さんを亡くしてもう五年ですが、彼女は未だに立ち直ることができません。それどころか、お母さんを亡くす前の幸せだったころの自分に戻ることを、自分に禁じているのです。
 私も三年前に妻を亡くしました。そのときの悲しみは、本当に、筆舌に尽くしがたいものがあります。とにかく体に力が入らないのです。毎朝自分の上半身を起こすのに百キロのバーベルを持ち上げるような気合を入れなければなりませんでした。一日中クタクタにくたびれているのに、夜中に五回も六回も目を覚ますのです。朝になるとまぶたが目やにで開きません。眠っている間も、涙が流れ続けているからです。
 私は死というものを本当に心の底から憎みます。そして死は神にとっても最後の敵なのだと聖書に書いてあるのです。愛するものを喪失することのダメージは、その人の体質、体調、味覚、ライフスタイルまでも変えてしまうほどのものです。

復活を見た弟子たちの変容

 ところで、キリスト以外に救いは無いと語った弟子たちは、いったいこの言葉をいつ叫んだんでしょう。キリストの十字架処刑から二ヶ月ほどしか経っていないときに語ったんです。つまり、最愛にして最高に崇拝していたキリストが死んで、その記憶がまだ生々しいときに、弟子たちはあろうことかキリスト処刑を決定した権力者たちに向かってはちきれんばかりの熱意で「キリストはよみがえったのです」と語ってるんです。普通、愛する人を喪失したら脱力してしまいます。立ち上がれなくなるのです。どうして彼らはかくも元気いっぱい、喜びと希望にあふれてキリストによる救いを述べ伝えることができたのでしょう。キリストは死んで終わりではなく三日目によみがえったからです。彼らはこの復活のキリストを見ました。そしてその体に触れました。一緒に食事を取りました。そして語り合ったのです。彼らはキリストの復活により死が滅ぼされたことを確認したのです。キリストの復活によって、死は永遠の別れから一時的な別れに変えられてしまったのです。悲しみが深ければ深いほど、その悲しみの原因が根本解決したときには喜びも深いものになりますね。キリストはよみがえられました。だからこそこの方に救いがあるのです。

この世界に再び来られるイエス

 第三に、キリストはまもなく再び私たちを迎えに来て最終的にこの世界を新しくしてくださる方であるからです。キリストになぜそんな力があるというんでしょう。この方は人となった神だからです。この世界の造り主であられる方であるからです。作者であるなら、作品が壊れたときに修繕することができるのです。はっきり言って、神はこの世界を良いものだとは思っておられません。この世には地震があり、津波があり、戦争があり、病気があり、老いがあり、裏切りがあり、そして破壊と悲惨があるのです。私たちはそのようなことを見聞きするとき、どうして神様はこんなことが起こるのを許されるんだろうか、といぶかります。さらに飛躍して、神はなんてひどいことをなさるんだろうか、と怒りを感ずるのです。

世界をリニューアルされるキリスト

 しかし、はっきりさせておかなければならないのは、この世と神は同じではないということです。この世界は神を表していません。かえって神に反逆した結果崩壊しているのがこの世界なのです。この世と神は区別されなければなりません。神もまた、この世界をひどい世界だと心を痛めておられるのです。そして心を痛めるだけではなくこの世界を一新するために、またキリストがこの世界に到来なさるのです。キリストは世界をリニューアルするために来られる方なのです…いや、来たりつつある方なんですね。だからこそ、この方には救いがあります。
 どうぞあなたも、このイエス・キリストをご自分の救い主として信じ、受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。

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