新約聖書
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。
(ピリピ1:21)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.657 2012年10月28日

「神からの贈りもの」

おはようございます。尼川匡志です!

 先月は、家内の誕生日でした。私たちには子供が二人いるんです。彼らは、すでに社会人として働いていますので、私たちの誕生日には二人そろってプレゼントしてくれるんです。家内はどんなプレゼントをくれるのかな、とこの前から楽しみにしていました。実は私の誕生日は5月なのですけれども、プレゼントのリクエストをまだ彼らには言っていないんです。正直、私としては彼らの気持ちだけでもう十分なんです。しかし、先日も娘にまた聞かれました。私はもう一度言ったんですね、「もう、あなたたちの気持ちだけで十分だ。だから何もいらないよ。」って。すると娘はこう言ったんです。「お父さんはほんまに分かってないね。私もお兄ちゃんもお父さんの喜ぶ顔が見たいんよ。だから早く決めて!」娘のこの言葉に私はほんとに心から喜びました。その時、私は神様のことを少し考えたんです。神様は、私たち一人一人が、笑顔で素晴らしい人生を生きることを、心から願っているんです。そのために、私達一人一人に素晴らしいプレゼントを用意してくださっているんです。しかし、そのプレゼントをいつまでたっても貰おうとせず「いらない!」と断り続けたら、どうでしょうか?それは受け取らないあなたにとっても、ほんとに大きな損失ですけれども、そのプレゼントをあげたくて仕方がない神ご自身にとっても、大きな痛みであり悲しみなんです。

カット

 神が、あなたに受け取ってもらいたいプレゼントとは、何だと思われますか?聖書にこのような言葉があります。

 「罪からくる報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

 この「賜物」という言葉は、英語で言うと「ギフト」です。贈り物でありプレゼントのことです。それは、「永遠の命」です。では「永遠の命」とはなんでしょうか。人が死んだあと神とともに「天国」で永遠に生きることができる「命」のことをいうのです。なぜ人間は死んだら終わりだ、とあなたはお考えなのでしょうか?私たちは知らず知らずのうちにそのように教えられ、人間は死んだら終わりと信じ込んでいるに過ぎないのではないでしょうか。
 昔、江戸時代人間は武士の方が農業をしている人より、価値があると信じられていました。それは、そのように、教えられ教育されたからです。明治時代に入って、しばらくして人権思想が入ってきて、人間は、皆平等なんだ!と誰もが信じるようになりました。なぜなら、そのように教育されたからです。人間の質が変わったからではありません。そのように教えられ、その価値を信じたから、そう考えれるようになったんです。人間は死んだら終わり。私達はなんとなくそのように教えられてきたんではないでしょうか。だから、そう信じているだけのように思うのです。

終わりが近づくにつれて失う幸福感

 今から2年ほど前、新聞の一面広告で美人女優さんが子供たちと一緒に美しい田園風景の中で写されている大きな写真の下に、こんなコピーが書かれてあったのを、今でも覚えています。「年をとることに、幸せを感じるのは、無理でしょうか。」というものです。年をとることは、決して不幸なことではありません。若い間に吸収されたことが熟成されるのは歳を重ねてからです。「子供が与えられるこも素晴らしいですけれども、孫が与えられるのは、もっと楽しい。」私の友人はそう言ってました。また若い時に見えていないものが見えてくるようになるのも歳を重ねてからです。しかし、幸せとはとても言えないことも多く出てくるのも確かです。いろんなものを手放して行かなければならないんです。体力・気力・筋力・記憶力。またあちらこちらに痛みも出てきます。目も、耳も足も衰えてきます。頭髪も減ります。肌のハリもなくなり、歯が抜け、シミやシワも増えていく。そして肉親や友人が一人、また一人と亡くなっていきます。獲得していくことは楽しいですけれども、獲得したものを手放すことは、楽しいことではないですね。その全てを一気に手放すとき、それが「死」です。つまり「年をとる」ということは、この「死」に近づいていくということです。もし、この「死」が私達の人生の中で得たものを全て引き剥がし、苦しみや痛みが伴い、真っ暗な「無」の中に突っ込んでいくことだけならば、決してその中に幸せを感じることはできません。確かにある時までは歳をとることに幸せを感じることもできるでしょうが、さらに進んで行く時、幸せを感じることができなくなるんです。
 聖書に、

「私にとって生きることはキリスト、死ぬことも益です。しかし、もしこの肉体の命が続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだら良いのか、私にはわかりません。私は、その二つのもののあいだに板挟みとなっています。私の願いは、世を去ってキリストと共にいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」

 これは、新約聖書の3分の2を書いたと言われるパウロという人が言った言葉です。彼は言いました「死ぬことも益だ」と。パウロにとって生きることは、とても素晴らしいことでした。しかし、死ぬことは、彼にとってもっと素晴らしいことだったんです。彼はそれを本気で考えていました。なぜなら、死ぬことは、無になることではなく、神とともに天国で永遠に過ごすことができる、ということがわかっていたからですね。

確かにある「天国」

 日本でも最近よく「天国」という言葉を耳にします。そしてその多くは方便で使われるんです。あったらいいなァ~!という世界です。しかしパウロが語っている「天国」は、そんな曖昧な世界ではないんです。実存の世界なんですね。確かにある世界です。なぜ彼はこのことが、はっきりとわかったのでしょうか?パウロの人生を見ればわかります。彼は、初めキリスト者の大迫害者だったんです。パウロはキリスト者を最も嫌悪し、軽蔑し、この世の害悪だ、と本気で考えていました。だから迫害し、抹殺したんです。それが彼の正義でした。しかし、ある時を境に彼の人生は、文字通り180度変わってしまいます。パウロがキリスト者になったんです。これは、考えられないことなんです。なぜ彼がキリスト者になったのか?復活のキリストに出会ったからです。、はっきりとわかったんですね。キリストを主と信じることは、永遠の命を神からもらい、天国で神とともに永遠に生きることができるんだ。そして、そのためにキリストはこの世界に来、十字架にかかり、その道を開いてくださったんだ。そのことが本当にわかったんです。

創造主があなたに与えたいもの

「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」

 これは聖書のことばです。神はこのキリストをあなたにプレゼントし、永遠のいのちをあなたに与えたいのです。あなたが「死ぬことも益だ」と本気で言える人生を生きてほしいんです。もし、そのプレゼントを受け取っておられないなら、歳をとることは、あるときまでは幸いを感じますけれども、最終的には悲しみと恐怖におののくのです。なぜなら「死」が悲しみと恐怖で満ちているからです。神はあなたに笑顔で終える人生を与えたい、そしてその後、永遠の天国で過ごす幸いを与えたいのです。それには、ただ一つの道しかないんです。イエスを信じる道です。
 ぜひ、この聖書を信じこのキリストを信じ、神からのプレゼントを受け取ってください。お勧めいたします。

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