旧約聖書
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
(詩篇103:2)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.658 2012年11月4日

「主をほめたたえよ」

おはようございます。高原剛一郎です!

 私の友人に、大変好奇心の強い人がいます。彼はロンドンオリンピックのメダリストを一目見るために会社を休んで銀座まで出かけていったっていうんです。その日はオープンカーに乗った選手たちが首からメダルをかけながら沿道の人々に手を振ってくれるっていうんですね。彼はテレビで見ていた本物のアスリートを直接見るために、朝の10時から場所取りに出かけていったんです。ところが、最前列はすでに占領されていたそうです。実際パレードに集まった人々は、50万人以上だったっというふうに言われています。人間って不思議だなあと思うんですね。世界の頂点に立った人、あるいはずば抜けて立派な業績を残した人を見ると、無性にあこがれ、興奮し、素直に喝采を送りたくなるんですね。どうやら人間には崇高なものや偉大なものに対して、崇拝したくなる本能が備わっているようです。人間のごく限られた運動競技のチャンピオンに対してすら、このような尊敬を捧げることが自然なことであるとするなら、人間をはるかに越えた究極の全能者をほめたたえるのは当然のことではないかなと、私は思うのです。

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 聖書の中に、こんな言葉があります。

 「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」

 主とは、全知全能の神さまのことです。この神はそれ自体偉大な方なのですが、それに加えて、私たちに対して良くしてくださった方なので、いっそうほめたたえようではないか、と語っているのです。それでは神は、私たちにどんな良いことをしてくださったんでしょう。3つ考えたいと思います。
 第一に、私たち一人一人を高価で尊いものとして造ってくださったということです。どんな人も、神様の前に失敗作として生まれてくるってことはありません。あなたは神に愛され、特別な使命をもって造られた最高傑作なのです。

神が造られたから、きっとうまくいく

 私は先日、ニック・ブイチチというクリスチャン青年の自伝を読みました。彼は両手両足が無いままで産まれてきたのです。お母さんはショックのあまり、出産直後に彼を抱くことができなかったといいます。彼は物心がつくと、自分が他の少年たちと違っているということに気がつきます。学校では容赦なく彼をからかったり、馬鹿にしたりする少年が出てくるのです。彼は何度か自殺を試みるところまで落ち込んでいくのですが、それを知った彼のお父さんが、優しく彼のことをなでながら、一言も責めることなく、ただ繰り返し言った言葉があります。「神が君を愛して造ってくださったんだよ。だから、きっとうまくいく。うまくいくのを見届ける前に人生を自分からあきらめてはいけない。うまくいくのに、もったいないじゃないか」尊敬するお父さんが、うまくいく、大丈夫だ、神さまが味方なんだとあまりにも自信たっぷりで言い続けるので、彼はついその言葉に乗っかってしまいます。そして自分にできることを次々と挑戦していくようになり、今では電動車いすや携帯・パソコンを使いこなし、水泳やサーフィン、スケートボードなども見事にやってのけるのです。
 彼はあるとき学校で自分のことを話すことになりました。彼は手足が有ることを前提にした社会の中で両手両足が無い自分がどのようにして生きてきたのかを話したのです。体はみんなと違っていても心は同じで、悲しいことがあると泣けてくるし、嬉しいことがあると元気になると言いました。そして自分には他の人と比べると欠けたものがあるけれど、ニック・ブイチチという人間としては何一つ足りないものは無いのだと気がついたときから幸せなんだ、と伝えたのです。聞いていたクラスメートの女の子の一人が、途中から嗚咽し始めました。そして彼のスピーチが終わると彼女は立ち上がって、「ハグしてもいいか」と聞くのです。「もちろん」というと、彼女は思いっきりニックを抱きしめてくれました。そして彼女が耳元で言った言葉が、その後の彼の人生を変えていくのです。彼女はこう言ったんです。「あなたのおかげで、人生が変わりそうです。」誰かの人生を美しいものに変えていくのに自分が役立つことの喜びを彼はここで経験するのです。今彼は全世界で講演をしてまわっています。YouTubeではその様子が何百万回と再生されています。彼の人生から言えることは、人と違うことの中にこそ、その人にしかできない偉大なる神からの使命がある、ということです。神様は、一人一人を違った人間に造ってくださったんです。それは優劣をつけるためではなく、その人でなければできない使命のためなのです。

裁かれるべき罪が赦される方法

 第二に、神さまはキリストにおいて私たちの罪を完全に赦し、消し去ってくださったのです。そのことのゆえにこの方をほめたたえようではないかというのです。息子が幼いころ、私の住む大阪の隣町で市長が汚職事件を起こしたことがあったのです。自分の地位を利用して賄賂を取り、不正に業者に仕事を回したということが発覚したんです。そのとき我が家ではそれがちょっとした話題になったのです。というのは、その賄賂の金額が実にわずかだったからです。それっぽっちのお金で。今まで築いてきた地位も信用も棒に振るって、なんて愚かなんだろう。どうしてこんなはした金で魂を売ってしまって汚職事件を起こしてしまったんだろうと、しばし家の中で語り合ったものでした。ところがそれから数日経ったとき、息子が私に質問があると言ってやって来たんです。あの市長は悪いことをしたのに、どうして「おしょくじけん」なのかって言うんです。いや、悪いことをしたからこそ「汚職事件」なんだ、と言うと、そこは納得できない、どう考えてもおかしいって言うんです。どうして悪を行った人がタダでご馳走を食べられるのか、と言ったときにわかりました。息子は汚職事件のことを、お食事を無料で食べられるお食事のサービス券のことだと勘違いしていたんですね。
ところで、私たちは幼い子どもでも悪に対して褒美があってはならない、悪は必ず罰を受けるべきだ、という感覚があるのです。不完全な人間の正義感でも、悪が見過ごしにされることは我慢ならない。とするなら、ましてや正義の審判者である神はなおさらのこと、罪を憎み、また罪を見過ごしにされることがありえない方なのです。しかし神様は罪を憎みながら、罪人を罰から救うためにキリストを身代わりに罰してくださったのです。あなたの絶体絶命を救うためにキリストを絶体絶命の試みに遭わせ、今から2000年前、あの十字架の上であなたの罪の償いをキリストにさせてくださったと言うのです。だからこそこの方をほめたたえて然るべきなのだと聖書は語るのです。

この世の人生には続きがある

 第三に、神様はキリストを死者の中からよみがえらせることによって、死後に始まる祝福の人生を用意してくださったのです。そのことのゆえに、この方をほめたたえようではないかというのです。この世の人生に続きを与えることで、この世での人生の意味を豊かな実りあるものへと変えてくださるのです。
 オーストラリア人の看護士、ボニー・ウェアさんという方のレポートによると、多くの人は死を目の前にしたとき人生を悔やみ始めます。後悔のトップ5は次のものです。他人の期待に応えるのではなく自分の人生を生きたかった。2番目、働きすぎたことで大切なものを犠牲にしてきた。第3番目、自分の感情を打ち明ける勇気がなかった。4番目、友人との関係を維持すべきであったのにそうしなかった。そして第5番目、もっと幸せに生きることを自分に許可すべきだった、ということです。いまさら後悔しても遅いんでしょうか。いいえ。もし人生に続きがあるなら、そうではありません。続く永遠の天国での人生がすばらしいものであるなら、地上の人生はいかに悲惨なものであったとしても、次に生かすための教訓にそれらを変えてしまうことができるのです。
 どうぞあなたも、キリストを受け入れ、神をほめたたえる人となってください。心からお勧めしたいと思います。

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