新約聖書
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
(1テモテ1:15)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.662 2012年11月25日

「キリスト到来の意味」

おはようございます。高原剛一郎です!

 実は、我が家には息子が幼稚園のときに描いてくれた私の絵があります。紙のお皿にクレパスで描かれたその作品は、なかなか前衛的なんです。というのは、とても人間の絵だとはわからないからです。ジャガイモに串が4本突き刺さったような絵なんですね。本人によると4本の串は私の両手足です。彼は愛する父を描いてくれたのですが、実物の私の姿とはかなり違ったものとなっていました。まだ幼かったので、正確に描けなかったのです。ところで人は、それぞれ神のイメージを持っていると思います。神がいたならきっとこんな方ではないかと、あれこれ心に神を描くのです。ある方にとってはいつもニコニコしている好々爺であり、ある方にとっては罰をあてる恐るべき存在です。しかし実際はどうなんでしょう。神を正確に知っているのは神本人だけです。その神そのものであられる方が、人間に神を表すために自ら人となってこの世に来てくださいました。その方がイエス・キリストなのです。そしてこのキリストの降誕を記念するのがクリスマスなのです。

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 聖書には、キリストが人となってこの世にこられた目的についてこう書いてあります。

 「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

 罪とは何でしょう。私たちの心をくじき、人を傷つけ、将来を台無しにすることです。そしてその根本は、自分の造り主を無視して生きることにあるのです。しかし、この罪をまったく洗い流すために、神はご自分のひとり子を、イエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。

人生に影響を与える人との出会い

 私の大学の先輩で、伝説的な名物教師がおられました。吉岡佐(たすく)さんという方です。彼は大変貧しい家で育ったので、幼稚園や保育園には行けなかったそうです。近所の子達は幼稚園から帰ってくると実に楽しそうにして言いました。「先生って優しいなぁ、先生っていいなぁ」彼は先生という存在がそんなにも魅力的だと聞いて、自分もいつか先生に会いたいと願っていました。そしてとうとう小学校に入ったとき、先生を見たんです。しかし1年1組のその担任の先生をひと目見たとき、なんてキツネに似てるんだと思ったそうです。心ひそかに「キツネ先生」と呼んでいました。すると以心伝心、あまり心が通じ合わないんですね。ある日先生が「明日の宿題をこれから言います」と言われたそのとき、彼の目の前を黒い大きなアゲハチョウがひらひらと飛んでいったんです。彼は、あぁ捕まえたいなぁと思ってそれから先生の方を向くと、「では終わります。今日は一回しか言いません。はいっ、帰ってよろしい」…次の日、宿題を忘れたのは吉岡少年だけでした。すると先生はおっしゃいました。「あなたが忘れることは、昨日からわかっていました。あなたは人の話を聞かない子ですね」以来彼は、早くキツネ先生と別れられるようにと祈ったそうです。すると念願がかない、小学2年にあがるときに転校になりました。
 今度の先生はカバのように大きい男の先生です。彼は心ひそかにカバ先生と呼んでいました。ある日のこと、学芸会で劇をすることになりました。彼はエキストラの役でしたが準主役級の生徒が高熱で学校をしばらく休むことになったのです。そして吉岡少年が代役になり2週間セリフの練習を積んだのですが、本番直前に準主役が戻ってきたのです。先生はおっしゃいました。「吉岡、お前もういいから」この一言でまたしてもカバ先生が嫌いになったのです。不思議なことに3年にあがるときにまた転校になりました。

自分の弱さや汚れを引き受けてくださる方

 今度の先生はキリギリスです。とにかくやせた先生です。新学期に入ってまもなく、先生はみんなに聞きました。「学校が好きな人いますか。学校が嫌いな人いますか。好きな人は手を挙げてください」吉岡少年は挙げませんでした。するとキリギリス先生が言いました。「学校が嫌いな人にろくな人はいません」あぁ、この先生もだめだと思ったそうです。
 すると小学4年生にあがるとき、また転校になったそうです。もう先生に対して何の期待もありません。ところが教室で待っていると、「こんにちは!」まるでコオロギみたいな明るい声で若い女の先生が入ってこられました。この先生はコオロギ先生です。「みんな4年2組ね、先生は私よ。大学出たばっかり!私は何も知らないから、みんな一緒にやろうね!実は私は学校が大嫌いでしたが、先生になりました。不思議でしょう?」彼は度肝を抜かれたんですね。そしてこの先生との出会いが、後に彼の将来を大きく変えるものとなっていくのです。
 実はそのころは学校にはプールというものがなく、夏になると電車に乗って近くの海水浴場まで行って水泳訓練をしていたのです。ところがその日は朝からおなかの調子が悪かったのです。コオロギ先生になってからは学校を一日も休みたくなかった彼は、無理して参加したのです。が、帰りの電車の中で彼はしくじってしまったのです。しかも小ではなく、大の方です。彼は誰にも見つからないよう車両の隅に立っていました。するとコオロギ先生がツカツカとやってきて、「吉岡君、二つ目の駅で降りるからね」駅に着くと先生はクラスのみんなに言いました。「吉岡君は親戚の家に急用ができたので、先生がついていきます。みんなは隣のクラスの先生の言うことを聞いて、先に帰ってください」駅に降りると先生は一言、「おいで」と言いました。そしてずんずん歩いて川原へ行き、「気持ち悪かったでしょう、先生が洗ってあげるから脱ぎなさい」と言ったんです。先生いいですいいです、と言うんですが、「なにを遠慮してるの、あなたは私の生徒なのよ」と言ってくれました。そしてズボンとパンツを洗ってくれたと言うのです。そして探してきた棒に洗濯物をかけて、2人で川原に寝転びました。先生と2人きりになったのは初めてでした。「実は私もね、一年生のときにおしっこでしくじったことがあるのよ。そしたら先生がみんなにわからないようにちゃんとかばってくれたのよ」えっ、先生も生理現象は我慢できなかったんだ、と思うと、吉岡さんはぐっと親近感がわいたそうです。
 それからの彼はとても良く勉強しましたが、5年生になったとき、またしても転校になったというのです。このときだけは、泣けて泣けて仕方がなかったそうです。人生で別れのつらさを初めて知った瞬間だったというのです。しかし彼の心の中には、人生に立ち向かっていく勇気が宿っていました。自分のようなものを心から愛し、大事にし、かばい、自分の失敗や汚いものをいやな顔ひとつせずに洗い流してくれる先生と出会ったからです。そんな先生に恵まれた吉岡さんは幸せなかたですね。しかし、あなたにも、それ以上のすばらしい救い主がおられるのです。それがイエス・キリストなのです。

私を救うために来られたイエス・キリスト

 キリストは私たちの口から出た悪い言葉、私たちの体で行った悪い行い、そういう言葉や行為を生む罪だらけの心を全てご存知の上で、私たちを罪のけがれから清めるためにこの世に来てくださった救い主です。あなたと同じように人となられたキリストは、あなたの弱さ、もろさ、つらさ、悲しさを何もかも知り、共感し、思いやることができる方です。その方があなたの罪の償いのために十字架にかかっていのちを捨てるために、この世に来られたのです。キリスト・イエスは罪人を懲らしめるためではなく、罪人を打ちのめすためではなく、罪人を救うためにこの世に来られたのです。
 どうぞこのキリストを、ご自分の救い主として受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。

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