新約聖書
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。
(マタイ9:12-13)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.669 2013年1月20日

「赦しとあわれみを好む神」

おはようございます。高原剛一郎です!

 先日、ある政治評論家がこんなことをおっしゃっていました。「私は将来の読みが100%的中する悲観論者よりも、半分しか当たらない楽観論者でありたい。」なるほどと思いましたね。日本の悪い面、暗い面ばかりを注目して一層真っ暗になるより、希望を語り、立ち上がらせる勇気の提供者でありたいというのは私も同じです。そしてこの番組では50%しか的中しない根拠の薄い希望ではなく、それを受け取る人を100%希望の結末に連れて行く神の言葉をお伝えしているのです。今日も希望の言葉を皆様にお伝えいたしましょう。ある時キリストが語られた言葉です。

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 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

罪人を温かい目でご覧になる神

 なぜこの言葉が希望の言葉なのでしょう。三つの理由があります。  第一に、神は罪人を温かい目でご覧になっていることが分かるからです。と言うのは、神に反逆する罪人を治療や看病を必要とする病人になぞらえて語っているからです。病院の中で一番親切にされるのはどんな患者でしょう。重病、重症の患者さんですね。自力では助かる見込みが少なければ少ないほど手厚く接していただくことが出来るのです。とするならば重い病の人にとってこれは希望のメッセージとなるのではありませんか。

ある帰国子女のお父さんの話

 十年ほど前、私はある帰国子女のお父さんから学校編入の苦労話を伺ったことがあります。彼は一家で五年間アメリカに移り住みました。六年目に帰国することになった時、娘さんはちょうど中学に上がる年 齢だったのです。ところが小学二年生から五年間アメリカ暮らしだったので、どうも日本語が中途半端だったのです。その頃、ある国立大学の付属中学で、帰国子女のコースを設立した学校があったのです。とても良いカリキュラムで大変評判だったのですが、新入生採用枠はたったの五人。そこに五十人以上の帰国子女たちが受験するんです。彼の娘さんはいくつも塾に通い、水泳を習い、鉄棒の特訓をして試験に臨んだのですが、帰って来たとき半べそをかいていたのです。まるで歯が立たなかったのです。

弱点がハンディにはならない喜び

 翌日は親の面接でした。彼は先生方から話を聞かされたのです。「お父さん、あなたの娘さんの日本語能力は小学一年生一学期のレベルです。」彼はあんまりはっきり言われたので言葉を失ってしまったそ うです。すると続けて先生がおっしゃいました。「したがって合格です。」「えっ!なぜなんですか!」「本校は日本語力が著しく低い生徒のために開校されているからです。」彼と娘さんは、この時ほど日本語で勉強ができないということを良かったと思ったことはなかったそうです。本来は勉強が遅れているということは自慢できることではありません。しかし、勉強が遅れている生徒のための学校では、この弱点がハンディにはならないのです。むしろ喜ばしいことになるのです。

罪人を救うために遣わされたキリスト

 神は罪人を救うためにキリストを遣わしてくださったのです。従ってキリストは罪人ではない人には関係がありません。我こそは罪人なのだと認めることが出来る人こそはキリストが探し求めておられる方なのです。キリストの前 では、自分が罪人であることを隠す必要は一切ありません。正直に自分の罪を申し出たら良いのです。

憐みが好きな神

 第二に、神は憐みが好きな方だと宣言されているが故にこれは希望のメッセージなのです。ところで憐みとは一体何なんでしょう。昔ナポレオンが将軍であった頃、一人の兵士が見張中に居眠りをしてしまったということが判明したんです。それで彼は死刑判決を受けたんです。それを知った彼の母親はナポレオンに直訴します。「何とかお許しください!」という風にしがみついて頼むのです。しかしナポレオンは退けました。「赦すわけにはいかない。なぜならあなたの息子が居眠りしたのはこれが二回目だからだ。初めての過ちであるなら赦しもしよう。しかし、同じことを二度も繰り返した彼に憐れみを与 える余地はもう残っていないのだ!」すると母親は食い下がってこのように言いました。「閣下、憐れみを与えるだけの余地があるから与える憐みは、憐みとは言いません。何一つ憐れみを受ける資格も価値もないのに与えるからこそ憐みではありませんか。」ここに憐れみの定義が見事にあらわされているのです。

憐みとはただ一方的に受ける恵み

 憐みとはそれを受ける理由も資格も持っていない者が、ただただ一方的に受ける恵みのことを言うのです。そして神はこの一方的憐みが大好きな方なのです。神は赦すに値しない者を赦したい方です。赦される資格のない罪人、赦される理由がその人の中にない者を赦したいと願っている神なのです。ただしその赦しは誰が見ても正当なものでなければならないのです。なぜなら神は赦しと憐れみを好 む神でありながら、同時に徹頭徹尾正しい神であるからです。先ほどの例で言うなら、ナポレオンは安易にこの兵士を許すことは難しいでしょう。なぜなら、そんな例外を連発していけば、軍の規律が崩れ去ってしまうからです。軍の規律という正義を保ちながら。同時に兵士が許されるためには、誰かがその償いを果たす必要があるのです。神は私たちの罪を赦すために、赦しの根拠となる犠牲を払ってくださいました。それこそはイエス・キリストの十字架上の死なのです。

何一つ罪の無い完全な方 キリスト

 そして、ここにこのメッセージが希望である第三の理由があるのです。キリストは何一つ罪の無い完全なる方でした。実に人となった神なのです。態度にも、言葉にも、心のうちの動機においても全く罪のない方です。従って罪の罰を受け る必要のない、いや受けるべきではない方だったのに、裁かれるはずのないこのキリストがあの十字架の上で神から裁かれてくださったのはなぜなのでしょう。赦されるはずのない罪人が許されるために、身代わりの死を遂げてくださったからです。そして死んだだけではなく、三日目に死を打ち破って甦り、弟子たちの前に四十日間姿を現し、天に帰って行かれた方なのです。この救い主、イエス・キリストをどうぞご自分の主として受け入れてください。そして永遠の命をご自分のものとなさってください。心からお勧めしたいと思います。

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