新約聖書
その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
(ヨハネ1:29)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.676 2013年3月10日

「世の罪を取り除く神の小羊」

 おはようございます。高原剛一郎です!

 日本が生んだ伝説的冒険家に植村直己という方がいました。29歳で世界初の5大陸最高峰の登頂を果たした人です。彼は33歳の時、グリーンランドからアラスカまで、12000kmの北極圏を犬ぞりで横断する旅に挑戦します。ところで、犬ぞりにはリーダー犬の役割が重要なんです。先頭を走るリーダー犬に実力があると後ろからついてくる11匹の犬は従うのですが、そうでないと、バラバラになってしまうんです。植村さんが選んだリーダー犬は、どの犬ともケンカをしない雌犬のアンナでした。とても、忠実で勇敢で、そして、温厚な犬なんです。ところが、犬ぞりの旅はピンチの連続だったんです。

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 ある日、犬の綱が絡まったので、縺れを解いてやったのです。するとその瞬間に一斉に全部の犬たちが逃げ出したんですね。しかも、リーダー犬のアンナまでもが去って行ったんです。あまりにも過酷な労働に嫌気がさしたんでしょう。気が付けば、氷と雪の北極の大地に、植村さんがたった一人です。移動手段をなくした彼は、絶体絶命のピンチに呆然とします。しかし、しばらくすると、地平線の彼方から何者かがやってくるではありませんか。目を凝らしてみると、それは逃げ出した11匹を引き連れて帰ってきたアンナの姿でした。実はアンナは一緒になって逃げて行ったのではなく、逃亡犬を連れ戻すために追いかけていったんです。この犬の示した忠実さは疑った彼を大いに恥じ入らせ、また、勇気づけたのです。それは人格あるものの心を打つ行為だったからです。

 ところで、聖書の中にも人間と深いかかわりを持つ動物が登場します。その代表は羊です。あるときイスラエルの預言者がイエスキリストのことをこの羊に例えて紹介しました。彼はキリストを指してこういったのです。

 「見よ。世の罪を取り除く神の子羊。」

 今日は、この短い言葉の中から、3つのポイントで聖書のメッセージをお伝えいたしましょう。

自分の作者から離れた人間

 第一に、世の罪という言葉です。先日、ヤマハのゴルフクラブに欠陥が見つかったためにリコールが発動されたというニュースがありました。どんな欠陥なんでしょう。ヘッドとシャフトをつなぐネジの直径が、既定のものよりも、0.1mm小さかったというのです。この0.1mmの誤差のために、フルスイングするとヘッドがすっぽ抜けて飛んでいくという事故が起こったんですね。このゴルフクラブは、飛距離が出るように実に考え抜かれた設計をされています。また、材料も一級品です。デザインとしても、ぴか一です。しかし、ネジの直径が1mmの十分の一小さいというズレのために、最高級スポーツ用品が凶器になってしまう可能性があるんです。小さなずれ、小さな不調和、小さな規格はずれが、全体を台無しにしてしまうのです。
 ところで、世とはなんでしょう神からずれている人間たちの事なんですね。神と不調和の状態にある人間のことです。神という自分の作者から外れている人間のありようです。人間は素晴らしい能力、素晴らしい構造、素晴らしいものを持ってはいますが、一番肝心な自分の作者から離れて自己中心となっているがために、本来の目的を果たすことができず、混乱と破壊を繰り返すようになっているのです。これを聖書は世の罪というのです。そして、すべての人は世の罪人なのです。そして人は、この罪のために、生きている間は互いに傷つけあい、死んだあとはその罪の刈取りをしなければならなくなってしまったのです。

愛は大切なものをも捧げる

 しかし、第二に、神はこの世の罪を取り除くものを用意してくださいました。それが、神の子羊なのです。
 私は先日、小学校の国語の教科書に載っている一文を読み、とても感動しました。そしてその続きが読みたいと思って、その原作をとりよせて読んだのです。それは子ども向けに書かれた童話です。オオカミのガブとヤギのメイという、本来は食物連鎖の関係にある者同士が、嵐の夜にひょんなことから知りあいになり、そして、親友になるのです。この関係は、それぞれの自分の仲間からこっぴどく非難されます。かたやオオカミのくせに山羊を食えないとあれば、オオカミ全体がなめられてしまうじゃないかとなじられ、かたや、山羊のくせにオオカミと仲良くするのは裏切り行為ではないかと疑惑の目を向けられるのです。彼らはそれぞれの群れから追放され、追い詰められていく、その中でメイは自分を食べて生きてくれと頼みこむのです。実際オオカミのガブは狼なので、飢えの極限状態の中で、メイを食べたくて食べたくてたまらなくなり七転八倒するんですね。しかし、どうしても一線を超えることはできませんでした。いや、かえって身を挺して、他の狼からメイを守り抜くのです。それは、メイの自分に対する愛に触れたからです。そして、この愛というのは自発的犠牲の形で最も明瞭に明らかにされていくのだというのが、この物語のテーマなんです。

キリストの十字架と復活

 キリストはなぜ、神の子羊と呼ばれたんでしょう。私たちの罪を完全に取り除くために自らを十字架の上で生贄の捧げ物となってくださったからです。メイは自分を食べて生き延びてくれと言いましたが、キリストはこう仰ったのです。私の肉は真の食物、私の血は真の飲み物、私を食べる者は永遠の命を持つと宣言してくださったのです。あなたのために、自発的に身代わりの死を引き受けたキリストはまさに神の用意された子羊なのです。そして、この方は死んでくださっただけではなく、3日目に死を突破して、復活してくださったのです。死んだきりの後味の悪い悲しみだけが残るような結論ではありません。復活のキリストは復活というこの偉大なる事実のゆえに、罪びとに許しと希望を与えてくださるんですね。

キリストに目を注ぐ

 第三に、「見よ。」という言葉です。注目しなさいという呼びかけなのです。私たちは自分の過去に注目するなら、そこには恥があります。また、自分の内側に注目するならば、醜いものがとぐろを巻いているのではないでしょう。また自分の将来の一番最後を見てみるならば、そこには、死が待ち受けているのです。もし、自分を見るなら、そこには希望はありません。しかし、キリストを見上げるなら、そこには、希望しか見当たらないのです。あなたの罪の償いは既に支払い終えられているのさ。あなたの人生の使命は既に備えられているのさ。あなたの死後には、永遠の天国が約束されているのだ。後はこの約束を受け取ることだけなんですね。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」この神の子羊の中に、すべての解決が詰まっているのです。
 どうぞあなたも、救い主イエスキリストを今、心に受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。

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