新約聖書
イエスは彼に言われた。わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
(ヨハネ14:6)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.678 2013年3月24日

「道・真理・いのちなるキリスト」

 おはようございます。高原剛一郎です!
カット

 バスケットボールに打ち込む青春を描いた漫画に、スラムダンクという作品があります。発行部数1億冊をゆうに超える国民的な作品で、今でも若者たちに強く支持されているそうです。作者の井上雄彦さんは、この作品を書くにあたって、一つ心掛けたことがあるそうです。それは登場人物すべてに必ず一つ欠点を作ることです。主人公の桜木花道は、才能はありますけれどもバスケットの初心者で経験がないんです。ライバルの流川楓という人はテクニックは凄いけれども体力がないんです。チームメイトの宮城リョータはスピード抜群ですが、背が低いんですね。みんないい面を持ってるんですが、致命的欠点も抱えています。しかし、その欠点を持っている一人一人が作者の描くストーリーの中に組み込まれていくときに、実に感動の物語となって行くんですね。これは実際の世界についても言えると思います。
 人間は単独ではどこかに欠点を持つものですが、その欠点を持つ人が、作者の意図通りに組み合わされていくと、実に美しい作品になるのです。しかし、問題は人が自分を作った作者から離れ、欠陥がある自分の考えを正義として主張しているところにあるようです。
 聖書はまず私自身が自分の造り主の元に立ち返ることが世界の完成に貢献出来る第一歩であると言うんですね。
 ではどのようにすれば自分の造り主のところに帰ることが出来るんでしょう。
 イエス・キリストはこう言われました。
 「イエスは彼に言われた。わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

イエス・キリストは道です

 ここにはキリストの3つの自己主張が宣言されています。第一にこの方は、罪ある人間が神に至るための唯一の道なのです。

 アフリカのタンザニアには、セレンゲディ国立公園という世界遺産があります。四国より遙かに大きい公園なんですね。この中には野生のライオン、ヒョウ、ゾウ、キリン、サイ、シマウマなど、まさに大自然がそのままに残されているのです。  ある時、ジャック・ライダーという人が、この自然公園のツアーに参加しました。ツアーといってもガイドと二人きりなんです。毎晩テントを張って野宿するんですね。それで彼は前もってリュックサックに、旅を楽しく便利に過ごすための道具を山と詰め込んで来たのです。食事を取るための道具、物を切るための道具、削るための道具、穴を掘るための道具、方角を知るための道具、星を見るための道具、応急手当をするための道具、まるでアウトドア製品の歩く広告塔みたいになって参加したんですが、ガイドのマサイ族の男の持ち物は、槍と棒だけなんです。
 最初の晩にこのガイドがリュックの中身を見たいと言い出したのです。それで彼は文明の利器を地面にずらっと並べてその使い方や性能を自慢したんです。するとマサイの男はひとことこう言ったんです。「これ全部持ち歩いて、おまえ幸せか?」ドキッとしたんですね。というのは実は日中重いリュックサックが肩に食い込んで、景色や動物を見る余裕など、ほとんどなかったからです。

どうしても必要なものはわずか

 ガイドの提案によって、ジャックは荷物の選別をしました。そして、どうしても必要な最低限のものだけにして、残りの大半の荷物は近くの村に預けていくことにしたのです。
 それから身軽になって旅をしている間、手放した荷物が「ああ、今あればいいのになあ」と思ったことはただの一回もなかったというのです。何か困ったことや、足りない物が出て来たときには、ガイドに言えば良かったからです。ガイドは槍と棒しかありませんでしたが、しかしこのセレンゲディ大公園の自然を知り尽くす人だったからです。
 怪我をすれば薬草を見つけてくる。火が必要なときは石でおこす。うまい井戸水の在処も彼の頭の中にはちゃんと入っています。
 あるところでどこにも道らしい道が見あたらない荒れ地に出たのでした。それでジャックはガイドに尋ねるんです。「道はどこだ?」すると男は言いました。「私が道なのです。」そうです。彼の中にゴールにたどり着くために必要なすべてのものがあったのです。
 それと同じように、キリストが道なのです。なぜならキリストの中に、神の戻るためのすべての道備えがあるからです。キリストとつながるということが、そのまま神に戻るということになるんですね。

イエス・キリストは真理です

 第二に、この方は真理です。この真理ということばのギリシャ語はアレセイヤーということばです。それは正直、誠実、裏表がない、現実そのものという意味があります。キリストは誰に対しても、わたしだけが正真正銘の誠実、正直、真実なんだと自己主張されたんです。そんなことを本気で言う人がいたら、普通は自己陶酔のナルシストではありませんか。しかし、キリストは本当に文字通り、徹頭徹尾、誠実の神なのです。と同時に真理とは答えでもあるんです。人生の目的、世界の存在理由、神の本質とは何でしょう。その答えとは何でしょう。イエス・キリストなのです。キリストが人生の目的であり、世界の存在理由であり、神の本質なのです。それを正気で自己主張する人格をあなたはどう思いますか。そんなことを本気で言うのはとんでもない傲慢人間か、本物の神かのどちらかではないでしょうか。そしてこの方は紛れもなく本物の神なのです。

イエス・キリストはいのちです

 第三に、この方はいのちなのです。ある方は食事の前に、こう言って子供に教えているそうです。「体の一部になっていただき、ありがとうございます。いただきまーす。」なるほど確かに食べ物というのは、私たちの体を作る材料になるんですね。例えば、マグロ2切れを食べたとします。そのマグロは一生で約1000匹のイワシを食べるそうです。そのイワシはアミエビを約5億匹食べ、そのアミエビはプランクトンを約5兆食べてるそうです。このマグロ2切れというのは、消費エネルギーにすると人間が20分生きれる位のカロリーがあるそうです。

いのちを必要とする生物

 つまり私たちが20分生きるために、マグロ2切れを通して1000匹のイワシ、アミエビ5億匹、プランクトン5兆のいのちを食べていることになるのです。人が生きるためには、別の何物かのいのちが失われなければならないという厳然たる事実がここにあるんですね。
 しかし、私たちはどんなに食べても、いつかは死にます。それは神との断絶の結果なのです。私たちは神に立ち返り、神を味わい、天国に至らせるいのちを必要としているんです。そしてそのいのちは一体どこにあるんでしょう。キリストはおっしゃいました。わたしがいのちなのですと。

キリストが犠牲になる必要があった

 肉体のいのちを得るために生き物の命が犠牲にならなければならなかったように、私たちが永遠のいのちを持つためには、永遠のいのちそのものなる方が、犠牲になる必要があったのです。その神のいのちそのものなる方こそは、イエス・キリストなんです。どうぞあなたも、このキリストを自分の救い主として信じ、キリストによってご自身の父なる神さまの前に立ち返ってください。心からお勧めしたいと思います。

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