新約聖書
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値することばです。
(1テモテ1:15)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.702 2013年9月8日

「死後の裁きからの救い主キリスト」

 えー、みなさん。こんにちは!
カット

 先ほど、スタジオの中から皆様を見てると、水槽に飼われているトカゲのような気がしました。なにかあの水族館でですね。多くの方々に観察されている生き物がありますけれども、非常に不思議な感覚がありましたね。でも同時にスタジオの中で歌っているコル・シャロームさんのすぐ近くで歌を聴くことができました。まあ、それを聞きながら生の歌っていいなぁという事を改めて思いました。
 実は、人間が死を目の前にしたときにそれでもできることが二つだけあるというふうに言われています。一つは祈ることです。どんなに力がなくて、声を出す体力もなくなったとしても、人は心の中で祈ることができます。もう一つは、歌うことができる、心の中で懐かしい思い出の曲を口ずさむことができるんですね。実はこの讃美歌というのはメロディーのついた祈りというふうにも言われてるんですよね。

究極の問題を解決されるキリスト

 さて、「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた。」いったい何から私たちを救うために来られたんだろうか。それは、人が必ず経験しなければならない死と死後の裁きから私たちを救って下さったのだ、救って下さるのだということをご紹介したいと思うのです。
 これは以前ラジオでも少し言ったことがあるのですが、20世紀最大の天才にアインシュタインという人がいるんですよね。彼はですね、ノーベル賞も、もちろん貰うわけですけれども、とにかくこの相対性理論であるとかですね。なかなかそれまでの科学者が思いつかなかったような事を次々とひらめいていく天才なのです。しかし天才というのは往々にして普通の人が思いつかないようなことはできるんですが、普通の人が簡単にできる事が出来ないんです。まああの髪の毛にしてもセットしなかったといわれています。櫛通らない。そしてですね。あの靴下履くときね。右と左の靴下が違うものであったとしてもね気にしなかったというふうに言われています。その点だけ私に似てるとかいう人がいらしゃっるかもわかりませんけど、そういうですね、方であったんですが、彼はユダヤ系の人ですよね。だから、ヨーロッパにいた時に、ヒットラーに狙われるわけですね。そして、アメリカに亡命したときにあっちこっちから引っ張りだこ、特に、プリンストン高等研究所というところに赴任するんですが、一か所に留まるだけじゃなくて、あっちこっちの大学や研究機関から私のところにも来てください。私のところにも講演に来てくださいというふうによく依頼されたんです。

行き先がわからないとき抱く不安

 ある時、列車に乗って講演先に向かっていた時に、車掌さんが入ってきまして、チケットの確認をするっていうんですね。指定席にちゃんと座っているかどうか、で、アインシュタインにチケットお願いしますって言ったらね。こう、ポケット探すんですが、ない。結局失くしているんですよね。気の毒に思った車掌さんがね。「博士、私、あなたの顔ね。よく知ってます。テレビにでてるしね。よく知ってますよ。あなた、アインシュタイン博士でしょ。あなたのような著名な人が、不正乗車するわけないから、もうチェックなしでいいです。切符なしでOKです。って言って下さったんです。ところがですね。その車掌がこの車内の点検を終わって、次の車両に行く時に、ふっと振り向くとね。まだ探しているんです。その探し方がですね。床に四つん這いになりながらね。「うー、切符がない、切符がない。」その見かねた車掌がですね。「あなたはアインシュタイン博士です。もう、切符いいって言ったら、いいですよ」と言った。すると、かれは、「私がアインシュタインだという事は私も知ってる。でもね、どこで降りたらいいかわからん」って言うんですよ。「自分が降りる駅は切符に書いてある。その切符失くしたんで、どこで降りたらいいか分からんのや」とこう言うわけですよね。

人間は死んで終わりではない

   私はそのエピソードを読みながらね。相対性理論のように難解なことを理解することができても、自分の行き先が分からないと人間は不安になるんだなという事を思いました。皆さん、私たちも人生という旅をしていますが私たちの最終的な行先ゴールというのはどこですか。私たちの命は最終的にどこに行くのかという事を皆様はご存知でしょうか。人間は誰しもが一度死ぬんですよね。そしてこの死の後にどこに行くのかという事ですね。まあ、ある方はですね。「死んだら無」とこう言うわけですね。死んだら無という事はどういう事かと言いますと死とは一切の未来を失うという事です。今までですね。いろんな辛いことがあったり、苦しいことがあったとしても生きてくることができたのは明日があると信じているからだと思うんですよね。今は補欠、でも来年はレギュラーになれるかもと頑張れるんです。今は浪人でも来年は大学生、だから頑張れます。死んで零、終わりという事は一切の未来はもう無いという人生観で生きる事ですよね。もう、死を目の前にして恐怖で一番力が湧いてこなければならない時に力が湧いてくる理由がなくなるというのはね。悲惨だと思います。
 聖書を見ると死は零ではありません。死んで終わりではない。人間はね、死んだあと永遠の世界に行きます。そして、永遠の裁きの世界にいく理由は人間の罪があるからですがこの罪がイエスキリストの十字架によって全部拭い去られている場合裁きの永遠ではなく、至福の永遠、私たちの作り主である魂の親のいる天国に行くことができる、この私たちを永遠の天国に迎え入れることができるようにするために、キリストは死んでまた3日目に蘇ってくださったのだと聖書は語るんですね。

先がわかれば今を乗り越えることができる

 昔ですね。奈良にドリームランドという遊園地がありましてね。それはあの子供達、連れて行ったことがあるんです。そこに行きますとですね。ジェットコースターがあるんですね。そのジェットコースターはですね。鉄でできてないんです。木なんです。で木なのでね。こう、ジェットコースターがグーッとゆっくり登って行く時にですね、こう、微妙にみっしみっしみっしみっし揺れるんですね。スピードは速くないんですけどね。ゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆら揺れるとですね。別の意味で恐怖です。どこかで崩れるかなという恐怖がありますよね。そういうこの不安をこう思いながらですね登っていくという、で一気に下っていくというジェットコースターであったわけですけれども、それをこの子供に言い聞かせてですね。「乗ろう」と。大人一人で恥ずかしいですよね。「乗ろう」と。「お父さん、僕、ちょっとあの早いの苦手やからいいわ」って断るんです。で「そんな事言わんと乗ろう」と、「人間なんでも経験やから乗ろう」ということでね。まあとにかく乗ったんですが、まあねえ、一回で酔いました。もうビューッと、そのただのビューじゃなくて、早いだけじゃなくて、みっしみしゆらゆらのでもうですね。二度と乗らないぞというふうに思ったんですが、ところがですね。子供はね。「お父さんもっぺん乗ろう」と言うんです。「いやいやもう嫌やって言ってたやん。」でも、「面白いからもういっぺん乗ろう」って「怖くないの」って聞いたら、「どんなものであるか前もって分かったら次から怖くない楽しむことができる」「どうぞ」っていうことでね、私は乗らずに乗って貰いましたけれどもね。

キリストの復活が私たちに語ること

 未知の物、得体のしれない所に沈んで行くとすらなら、それは恐ろしいことです。しかし、どんなものであるか、永遠の天国への通過点にしか過ぎないという事がキリストの復活によって立証されているならば、私たちは恐れる必要がないのです。この救い主イエスキリストを自分の救い主として信じる者はたとえ死んでも永遠の天国に行くという確約が聖書の中にあるんですね。是非皆様もこの救いをご自分のものとされて、永遠の命を頂いてください。心からお勧めしてお話とさせていただきたいと思います。
 どうもご清聴ありがとうございました。

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