新約聖書
 この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。
(ルカ5:27-28)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.714 2013年12月1日

「選択は人生を変える」

 おはようございます。高原剛一郎です!

カット
 私は先日、たいへん興味深い人物のことを知りました。ロジャー・クロフォードという人です。彼は、コンサルタントおよび講演家として、大企業や学校など、全米を飛び回っています。コンサルタントになる前、彼はプロテニスの選手でした。ところで、彼は、両手がなく、片足はくるぶしから先の部分がありません。ロジャー・クロフォードは、欠指症と呼ばれる状態で生まれてきたのです。左手の指は2本、右手の指は、1本しかありません。5歳のとき、義足をつけるために、左足の下の部分を切断しました。そして左足のアキレス腱を左手に移植して、動かせるようにしてもらうのです。ロジャーの両親はたくさんの医学の専門家から、彼は一生歩けず、普通の生活はできない、と言われていました。しかし、彼の両親は、彼が、愛されているということを実感でき、また、自立心ある人間になるように、と励まし続けたのです。

 ハンディキャップは自分が作るものなんだよ、というのが、お父さんの口癖でした。彼にはブライアンという弟がいました。あるとき、彼はお母さんに聞きました。「また、僕みたいな子供が生まれてきたら、どうするつもりだったの?」「あなたは特別な子だったから、もう一人そういう子が生まれてもいいなあ、と思ったのよ」「じゃあ、弟が生まれてきたとき、どう思ったの?」お母さんは言ったそうです。「あなたはたった2000グラムの小さい赤ちゃんだったけど、弟は4600グラムもあって、手と足にそれぞれ5本ずつ指が付いていたの『あら大変、神様へのお祈りが効きすぎたんだわ』と思ったわ」

失望と失敗の原因をどう見るか

 ところで、ロジャーが大学生になったとき、彼のテニスの試合を見た人が、電話をかけてきたのです。その人とレストランで会ったとき、ロジャーは興奮しました。というのは、彼も同じ欠指症の体をしていたからです。ロジャーは、ああ、自分と同じ境遇にあって、しかも年上の、メンターと会えたんだ、と感激したんです。ところが、しばらく話をしているうちに、それが間違いであることに気づきます。
 この人は、人生の全ての失望と失敗を、自分の生い立ちと体の構造のせいにする、徹底した悲観主義者だったからです。彼は長い間仕事に就いていませんでしたが、それは差別のせいであって、決して、彼が遅刻ばかりしていてしょっちゅう欠勤し、責任を持って仕事をやり遂げないことが原因ではない、と思い込んでいました。とにかく世間が悪い、という考えに凝り固まっていて、彼にとっての問題は、世間がそれを認めないことだったのです。

同じ境遇で何が違うのか

 自分の絶望感に共鳴してくれない、という理由で、最後はロジャーに対してまで怒りをぶつけ始めたというのです。ロジャーはその本の中で、こう締めくくっていました。「数年間、連絡を取り合いましたが、もし、とつぜん奇跡が起きて、彼の体が完全になったとしても、彼はやはり不幸で成功しないだろうということが、僕にはだんだんわかって来ました。その場合でも、彼はきっと、人生の同じ場所に立ち止まったままでいるでしょう」と。
 同じ境遇の中で、何が、二人をこうも違う人生に歩ませているのでしょう。被害者意識で、自己憐憫の道を歩むか、体は変えられないけれど、与えられた境遇に対する考え方は変えることができると信じ、立ち上がるかどうかの、その選択の違いによるのです。全てのことができる人はいません。しかし、全ての人が、何かはできるんです。全部をこなせる人は、誰もいません。しかし、全ての人に、何かしら自分ができることが、必ず残されているのです。その、自分にできることを見つけて、立ち上がっていく力は、いったい、どこから来るのでしょう。あなたに対して最善を準備している神が、あなたに呼びかけていることを知ることから来るのです。

レビという取税人

 聖書の中に、こんな記事があります。
 「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、『わたしについてきなさい。』と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」

 当時、取税人という仕事は、ユダヤの国の人々からは軽蔑されていました。彼らは、ユダヤの国を支配するローマの手先になって、同胞から不当に高額な税金を巻き上げ、そうして私腹を肥やしていたからです。わざわざ同胞から憎まれるような仕事を職業にした理由は、聖書の中には、はっきりは書いていません。しかし、世間に対する何かの恨みや怒りが、あえて反社会的な仕事に就かせる理由となった可能性は、大いにあると思います。心の中に苦いものを持っている人、人生を復讐心で生きている人は、わざと人から嫌われるようなことをするものです。しかし、うらみ・つらみ、復讐心と被害者意識の人生は、決して人生を幸せにしません。決して人間を幸せにしません。そこには、生きていてよかったという充実感は生まれません。

神と人を憎んでは幸せに生きていけない

 人間は、そもそも神と人を憎んでは幸せに生きていけないように、造られているからです。しかし、レビは長年そういう人生をやってきたので、今さらそれ以外の生き方に転換する術を知らないのです。ところが、そんなレビに対して、イエス・キリストが声をかけるんですね。彼の生い立ち、彼の怒り、彼の恨み、彼の後悔する心の全てを見抜いたイエス・キリストはただ一言、「わたしについてきなさい」と呼ばれたのです。このことばは、当時のユダヤの世界で師匠が弟子をとるときに言う、決まり文句なのです。このときレビには、2つの選択肢がありました。1つは、リスクを恐れてそのままの人生に座り込んで、今まで通り、恨みの人生を続けることです。しかし、もう1つの選択は、キリストに人生をゆだねて、信じることなのです。

立ち上がったレビ

 彼は立ち上がって、救い主イエス・キリストについて行くことにしました。そして、このレビという人物こそは、「マタイの福音書」を書いたマタイその人なのです。新約聖書の中で最もたくさん読まれたマタイの福音書を世に残すために、用いられることになるのです。今まで、どれだけたくさんの人がこのマタイの福音書でキリストに出会ったか、誰も知ることはできないほどです。

「人生における重要な選択」という詩

 ところで、私の部屋には1枚の詩が張り出されています。「人生における重要な選択」という詩です。ちょっと読んでみましょう。
 「絶望が私を破壊しそうになるとき、私はいのちを選ぶ。神はいったい何を考えておられるのか、と思うとき、私は信じることを選ぶ。仮借なき現実に苦しみ、逃げ出したくなるとき、私は忍耐を選ぶ。失望と悲しみに押し潰されそうになるとき、私は弱さを打ち明けることを選ぶ。自分の思い通りに進まぬとき、私は、手放すことを選ぶ。人に向かって指をさしたくなるようなとき、私は赦すことを選ぶ。諦めたくなるとき、私は目的を持って行動することを選ぶ。」

 良いほうを選べば、よい結果がついてきます。悪いほうを選べば、悪い結果がついてくるのです。どうぞあなたも、イエスを救い主として選んでください。最善の人生は、ここから始まるからです。このイエスを救い主として受け入れることを、心からお勧めしたいと思います。

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