新約聖書
 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
(ローマ5:8)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.720 22014年1月12日

「トップに愛される幸い」

おはようございます、高原剛一郎です!

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 さて、一枚の紙は、それだけでは遠くに飛ばすことはできませんね。でも、一枚の紙を何度か折って、紙飛行機の形にすると、はるか彼方にまで、飛ばすことができますね。ものが形を変えただけで、以前にはできなかったことができるようになるってことに、私はなんだか不思議を感じます。そして、これは人間にも当てはまるのではないかと思ったのです。
 人間は、物理的に形を変えることはできません。しかし、人生における態度を変えることはできると思うのです。態度が変わると、見方が変わります。見方が変わると、行動も変わります。行動が変わると、人生そのものも変わっていくに違いないのです。聖書は、神から離れた人間が神のもとに帰るように、態度の転換を薦めています。そして、神のもとに立ち返る呼びかけのメッセージを、福音と呼んでいるのです。今日は、そんな聖書の一部をご紹介いたしましょう。

創造主の大きな愛

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

 ここに、3つの偉大な事実が宣言されています。
 第一に、神は、私たちがまだ罪人であったときに、私たちを愛してくださった、ということです。
 ある若手芸人が、コメディアンを目指して、とある劇団に入ったそうです。ところが、彼は極度のあがり症で、本番になると覚えたせりふをみんな忘れてしまうんです。しかも、根が生真面目なので、いちど失敗すると、なかなか立ち直れないのです。歌を歌わせてみるとひどい音痴で、これも使い物にはなりません。ダンスをやらせると、リズム感がなく、一人で全体の足を引っ張るんです。劇団のほうも、三ヶ月のあいだ様子を見るんですが、どうにも進歩がありません。とうとう、劇団の演出家が、彼を呼び出して通告するのです。「君はこの世界に向いてない。君には才能がなさ過ぎる。辞めるなら早いほうがいい。今なら、人生はやり直しが利くんだから」素直な彼はその一言で納得してしまい、最終的な責任者で、自分の師匠でもある、劇団の団長のところに行って、辞めます、と言うんです。すると団長は言いました。「演出家の先生の意見は、ちょっと横へ置いといて。君自身は、どうしたいのか」「はい、僕はあと三ヶ月、続けてみたいです。それでも駄目だったら、諦めがつきます」「わかった。ちょっと待ってなさい」と言うが早いか、団長は演出家のところに行って、クビ宣告を撤回させるんですね。

トップからの愛がもたらす強さ

 それでその若手芸人は、とうとう、辞めずにそのまま続けることになったんです。後日彼が演出家に聞くと、師匠のとりなしが利いたんだそうです。「確かにあいつは才能がない。何をやらしてもとろい。しかしただ1つ、返事が気持ちいい。何か言ったら、ハイィ!という、あの返事だけは、何回聞いても気分が良い。だから、あの返事のためだけの理由で良いから、置いてやってくれないか」若手芸人は、たいへん感動します。すると、演出家が続けてこう言ったのです。「この世界でいちばん大事なのは、才能があるかないかとか、うまい下手じゃない。そんなのは二番目、三番目のことだ。一番たいせつなのは、トップの人に愛されることだ。一番上の人から、引き上げてあげたい、と思ってもらうことだ。君には、そう思わせる何かがあるんだから、きっと、一人前の芸人になれるはずだ。だから辞めずに続けなさい」この言葉を聞いたとき、彼はその場でうれし泣きしたそうです。そして、何があっても一人前になって、師匠に恩返しをしようと誓ったのです。
 この芸人は、名前を萩本欽一といいます。そう、欽ちゃんですね。起伏の激しい芸能界で、彼を支えた原点は、師匠の愛と、それに対する応答だったのです。ところで、劇団のトップに愛されるということが、芸能界で大きな力になるということであるなら、この全宇宙のトップに愛されるということは、もっとすごい、一大事ではありませんか。その一大事が、あなたの身の上に起こっているということを、あなたはご存知ですか。この世界をお造りになった、まことの神様、天地万物の創造主は、あなたを愛しておられるのです。欽ちゃんが愛されたのは、性格と返事が良いからです。しかし、神は、私たちがまだ罪人であったときに、私たちを愛してくださったのです。

罪という借金を代わりに返済してくださった救い主

 第二に、キリストがあなたのために死んでくださった、という事実です。まったく罪のない唯一のお方、イエス・キリストは、今から二千年前、ゴルゴダの丘の十字架にかかって、人からも神からも捨てられ、呪われて、死んでくださいました。世界で唯一、罪とまったく無関係の方が、なぜ、十字架という究極の処刑方法で殺されなければならなかったのでしょう。罪とまったく無関係の方でなければ、罪人の身代わりになることはできないからです。自分自身が借金まみれの人は、ほかの人の借金返済を助けることなどできません。まったく借金がない、それだけではなく金持ちの人だけが、ほかの人の借金返済を助けることができるのです。罪という負債が、ひとっつもないキリストだけが、罪でがんじがらめになった私たちの、身代わりになることがおできになるのです。そしてキリストの、身代わりの死と、三日目の復活によって、私たちは罪ゆるされ、神の前に恐れなく立つことができる、この救いが、完成したのです。

キリストの救いの価値は計り知れない

 第三に、キリストを救い主として受け入れる者は、過去にどのような罪があっても、その罪がゆるされ、永遠の命を持ち、天国に入る資格を得るのです。
 スペインに、ルイス・デ・モヤというクリスチャンがいます。彼は37歳のとき、交通事故に遭い、首から下が動かなくなってしまいます。以来、車椅子での生活ですが、伝道活動を一切やめません。首を動かしてカーソルを移動させ、息の力でクリックできる、特殊なパソコンを使い、本を出版しているのです。また、大学の教壇に立って、堂々たる講義を若者たちにしています。そして、テレビに出演し、多くの人々に、生きていく勇気と励ましを与えているのです。彼は、事故に遭う前よりもさらに大胆に、精力的に活動を続けているのです。そんなルイスさんに、ある人が尋ねました。「事故で体が不自由なのに、どうしてそんなに明るく生き生きとしていられるんですか」ルイスさんの答えはこうです。「怪我をして失ったものは、確かにあります。でもね、それは、億万長者が千円落としたようなものです」。体が不自由になったことを、千円程度の損失と思わせる彼の資産とは、いったい何でしょう。イエス・キリストにある、永遠の命なのです。キリストを信じるものは、やがてキリストが再び来られるときには、病むことも、老いることも、死ぬことすらもない、完全な体に変えられ、キリストとともに永遠に世界を統治することを知っているのです。
 いかがでしょう。あなたも、イエス・キリストを救い主として受け入れ、朽ちない望みに生きるものと、なっていただきたいのです。どうぞ、心から、この救いを受けることを、お勧めしたいと思います。

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