新約聖書
 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
(2コリント5:17)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.740 2014年6月1日

「キリストは人を新しくする」

おはようございます、高原剛一郎です!

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 さて現在、市中に出回っている加工食品には人工香料が使われています。日本で使われている人工香料の成分は3000種類あります。一つの香料は10種類くらいの成分を混ぜ合わせて本物そっくりの香りにするんですね。たとえば、最近の缶コーヒーはとってもいい香りがしますね。でもあれは、コーヒーそれ自体からの香りではないのです。コーヒーそっくりの人工香料の香りなんねんですね。またケーキ屋さんのケーキの香りも実は甘い香りを醸す人工香料の力です。インスタントの豚骨ラーメンには、なんと隠し香として汗まみれになった脱ぎたての靴下の匂いの成分が入っているんです。これら人工香料には人間を錯覚に陥らせる力があるんですね。ある企業の実験ではフライドポテトの香料を付けたティッシュペーパーを口に入れたら人は美味しく感じてしまうというデーターまで残っているというんです。つまり人間は感じる物にとっても弱いという事が分かります。たとえ食べ物でなくても、おいしい食べ物の香りを付けると味覚までもが錯覚を起こしてしまうというのです。人の五感は確かに素晴らしい能力ですが、同時に騙されやすいものでもあるのです。五感で感じ取れるものが全て実在しているわけではなく、また五感で感じ取れないからと言って存在していないとは言えないのです。 

日々私たちに語りかけておられる神

   聖書が語るこの世界の造り主は五感では感じられません。見る事も、触る事も、聞く事も、嗅ぐ事も、味わう事もできません。神は霊的な存在なので人間の肉体の感覚では捉える事は出来ないのです。しかし神は隠れた所で私たちを見守り、愛し、応援し、救いに導こうと日夜働きかけておられるのです。

母親が現した本当の愛

 向田邦子さんの短編でたった3ページの短さなのに私の心に焼付いて消えないエッセイが1つあります。ゆで卵というエッセイです。
 向田さんが小学4年の時、クラスに片足の悪い女の子がいました。彼女は足だけではなく片目も不自由でした。背もとびぬけて低く、勉強はびりで、ゆとりのない暮らし向きに見えて襟が垢でピカピカに光ったおさがりらしいサイズの合ってないセーラー服を着ていました。性格もひねくれていて可哀そうだと思いながら担任の先生も向田さんたちも、つい疎んじてたのです。
 そんなある日の事、秋の遠足がやってきました。リュックサックと水筒を背負って朝早く校庭に集まるのですが級長をしていた向田さんの傍に例の子の母親がやってきたんです。まるで子供のように背が低くて、手拭いで髪をくるんでいます。その人は割烹着の下から、大きな風呂敷包みを出すと、これ皆でと小声で繰り返しながら向田さんに押し付けるんです。古新聞に包んだその中身は大量のゆで卵でした。ポカポカと温かいもちごたえのする風呂敷包みを持って遠足に行く決まりの悪さを思って一瞬怯みます。しかし、じーっと頭を下げてるその母親の姿を見ると、嫌とは言えなかったっていうんですね。歩き出した列の先頭には足を引きずりながら必死でついていくあの子の姿がありました。

十字架と復活は神の愛の現れ

 この子のお母さんは校門のところで見送る父兄たちから一人離れて見送っていました。そして向田さんは次のように書いて文章を締めくくるのです。私は愛という字を見る。私は愛という字を見ていると、なぜかこの時の鼠色の汚れた風呂敷とポカポカと温かいゆで卵の温みと、いつまでも見送っていた母親の姿を思い出してしまうのです。我が子の前には一切姿を見せず級長の子に大量のゆで卵を頭を下げて託け、一言も声をかけることなく校門の傍で見送っているお母さんの姿に向田さんは愛を見たというのです。
 神様はあなたの前に目に見える姿で現れる事はありません。あなたの五感で感知できる形を持って登場することはないでしょう。しかし、あなたの知らない間にあなたの見えないところであなたの罪を永久に処分するためにイエスキリストを十字架の上で裁いてくださったのです。キリストはあなたの身代わりになって十字架で死に、そして三日目に蘇って下さったのです。

キリストの福音は人を変える

 今から約200年くらい前、ダーウィンは南アメリカの南端ホーン岬の近くにあるフエゴ島に動物から人間への進化の途中の生き物がいると発表します。ダーウィンがそう思ったのはこの島の住民には言葉が無く、家も無く、裸で、雨が降ると物陰に隠れてうずくまり、自然にある物を取って食べて生きていたのです。しかし、この報告を聞いた海軍の退役大佐アレンガードナーはクリスチャンとして聖書を信じる立場から彼らは進化論者が言うような猿以上人間未満の中間生物なんかではなく立派な人間であると確信しました。ただ彼らは何らかの事情で孤島に住むようになり大陸の人類文明から切り離された結果、退化した生活をしているだけだと考えたのです。そして、このような見捨てられた人々にこそキリストの福音が必要だと考えガードナーは宣教師となってフエゴ島へ行く決心をするんです。
 出発前に彼はダーウィンに面会し島の様子を尋ねました。するとダーウィンは驚いて無駄なことはお止めなさい。彼らに火を使う事を教える事は出来たとしても、精神的な事なんか通じる相手ではありませんよと止めるのです。しかし、ガードナーは島に向かっていきました。実際に上陸してみてみると、彼らは自然界の野生の動物と同じでした。男も女も全裸で獣のように吠え、魚や木の実をとって食べ夜は好き勝手なところでごろ寝をします。しかし、彼らには一つタブーがあったんですね。タブーがあるという事は、見えない何かを恐れる心があるという事です。ガードナーは確信に満ちて伝道をはじめますが程なくして熱病に倒れ亡くなってしまいます。
 しかし、第二、第三のガードナーが後に続いたのです。イギリスからやってきた宣教師は彼らに英語を教え、料理を教え、服を着せ、家の作り方を教え、真の神を教えたのです。そしてこの神から離れる人間の罪の刑罰を神の一人子イエスキリストが受けてくださったという福音をしっかりと伝えたのです。それから25年後島にはクリスチャンが溢れていました。その中の一人をロンドンに連れて行き教会でいかにしてキリストと出会ったかという証しを英語で話してもらったのです。その場に招かれていたダーウィンは腰を抜かすほど驚いたといわれています。目の前にいるのは実に崇高な立派な人間であったからです。
 聖書はこう言っています。

「だれでもキリストのうちにあるなら、新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

 どうぞあなたもキリストを信じて新しい命を頂いてください。心からお勧めしたいと思います。 

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