新約聖書
 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
(1ヨハネ3:16)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.742 2014年6月15日

「いのちより大切なもの」

おはようございます、三綿直人です!

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 私は国内外、いろんなところに出かけて行って、聖書のお話をさせていただいていますが、先日聖書講演会に出席された方から、こんな質問を受けました。「聖書の教えを一言でいうと何になるか教えて下さい。」というんです。「一言ですか・・・。」と思案してると「ちなみに仏教はな」と教えてくれました。この方はいろんなセミナーに出席されて勉強されてる方だそうですが、仏教は一言でいうと、「平生業成だ」というんです。「平生業成ってなんですか?」って言ったら、平生とは、平に生きると書くんですけど、「死んだ後のことではなく生きている時っていことや。」業ってのは、事業の業と書くんですけど、「これは人生でその人がなさんとあかんことや。」そして、成っていうのは、達成の成ですけど、「完成する、達成するっていうことや。」「すなわち仏教っていうのは、今生きてる時に、あなたの人生の大事業を達成しなさい、っていうことらしい。死んでからの話じゃないんやなぁ。葬式仏教ってのは本来の仏教、釈迦の教えとちゃうらしいで。」というです。ところで聖書はどうなんだ、と。
 私は、「聖書を一言で説明できるなんて、とってもできませんけど、聖書の中にこんなことばがあります。イエス・キリストが語ったことばです。」ということを紹介しました。こんなことばです。

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」

   みなさん、もしこの分厚い聖書に何が書かれているか一言で言え、ということが許されるなら、聖書はイエス・キリストについて証言している、と言えると思います。このイエス・キリストはご自分のことをこのように紹介されました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のもとに行くことはできません。」

   さて、今朝はこのイエス・キリストについて、どのようなお方なのか、三つのポイントで考えてみましょう。

イエスとはどのようなお方か?

   まず一つ目、イエス・キリストは、わたしは道だ、とおっしゃるんですね。どういう意味でしょう?
 私は先日、沖縄県を訪問しました。87歳になる女性に聖書のお話をするためです。このおばあちゃん、女性には7人の子供がいるんですけど、一番下の娘さんがしばらく前に四十数歳の若さで病気のため亡くなったんです。悲しみに明け暮れているお母さん、その様子を見たクリスチャンの娘さん、亡くなられた方のお姉さんですね、その方がお母さんにぜひ聖書の話を届けたい。でもお母さんは腰が悪くて、家を出て教会に来て聖書の話聴くことできない。ということだったんで、私は喜んで協力することにしたんです。ご存知かと思いますが、沖縄には日本で最も長い国道があります。沖縄の大動脈、国道58号線です。実に総距離が857キロ。鹿児島県鹿児島市から沖縄県那覇市を結ぶ海上道路を含めた道なんですね。経由地が種子島、奄美大島です。ちなみに58号線というんですけど、沖縄名物のゴーヤとの関連はないそうです。私はそのお母さんに話しました。「お母さん、私、那覇空港からここお母さんの家まで、だいたい百キロあったんですけど、沖縄自動車道と国道58号線があったので、無事に車で来ることできました。この道を造ってくれた方に感謝したいです。もし道がなかったら、ここまで来ることできませんでした。」

天と地を結ぶ道、イエス・キリスト

 みなさん、イエス・キリストは道だとおっしゃるんです。人間は目的地に到達するために、多くの道やトンネルを造ってきました。その労力は、また知恵は、努力はすごいですよね。しかし、人間がどうしても造ることのできない道があります。それが私たちをお造りになられ、私たちを愛しておられる天の父のもとに帰る道なんです。天の父がおられるところには、人間の真の祝福があります。慰めがあります。喜びがあるんです。しかし、私たち人間はこの天の父なる神さまから遠く離れてしまっています。故に、私たちの世界は争い、不安、怒りに満ちてるんです。人間が決して、自分の力で造ることのできない道、天と地を結ぶ道、その道となって下さった方、それがイエス・キリストなんです。

イエス・キリストは一つ心なる方

 次に二つ目、イエス・キリストは、わたしは真理だ、とおっしゃるんです。この真理ということばは、真実とも訳せますし、もともとの意味は一つ心という意味だそうです。
 本音と建て前かるた、というのを聞きました。かるたに、本音と建て前、二つ載ってるんです。ある女性社員が考案して大ヒットしたっていんですが、例えば、「な」の札を見ると、笑いました。建て前のところには、「泣き虫でごめんね。ふだんは違うのよ。」でも黒のところ、本音には「涙見せ、意外なギャップで射落とすの。」女性の涙の二通りの用い方を表現してるんですね。そんな風に考えてるんだと、思わず笑ってしまいました。私たちは男性でも女性でも、二心あるものです。思ってることをそのまま言ったら、問題勃発する社会で生きています。ですから、この本音と建て前をうまく使い分けるんですよね。しかし、イエス・キリストは一つ心なんです。思ってることと言うことが同じ、言うことと行動が同じ。このイエス・キリストが十字架で死刑にされる時、こんなふうに祈られたんです。
「父よ。彼らをお赦しください。」
 私たちは、物事をうまく進ませるために本音と建て前を使い分けます。ですから、うまく行かなければ、また評価されないとわかれば、暴言、悪口、愚痴言うんですね。でもこのイエス・キリストは死刑になる時、うまく行かない時、誰も自分を評価しない時、口からこんな風に祈ったんです。
「父よ。彼らをお赦しください。」
 この方は一つ心、真実な方なんです。この方を私は人となられた神と信じています。

キリストはいのちなる方

 最後にイエス・キリストは、わたしはいのちだと、おっしゃいました。私たち肉体のいのちは、何かのいのちをいただくことによって支えられています。同じように、私たちの心のいのち、魂のいのちは、イエス・キリストのいのちをいただくことによって支えられ、生かされるんだと聖書は教えるんです。
 沖縄のこのお母さんが最後にこんな質問をしてくれました。
「沖縄ではね、ぬちどぅたから、と言います。ぬちっていうのはいのちなんです。いのちこそ宝っていう意味なんです。でも私が娘からもらったこの詩集のタイトルは、[いのちより大切なもの]っていうもんです。三綿さん、いのちより大切なものなんて、あるんですか?」って。
私は説明しました。
「お母さん、娘さんが亡くなられて、何が一番残念でしたか?」
そしたら、
「やあ、看病してやれなかったことや。娘と私が代わってやれたらよかったのに、代わってやれなかったことや。私が死んで、娘が生きたらよかったんや。」と涙流しながら、おっしゃったんです。母の愛です。
「お母さん、お母さんも実はいのちより大切なもの持っておられたんですね。自分のいのちより大切なもの、それが娘さんだったんですね。お母さん、イエスさまもいっしょなんです。イエスさまも、ご自分のいのちより、お母さんのいのちが大事だと心から思っておられるんです。だから、ご自分のいのちを捨てて、十字架にかかったんです。天国に行く道を造ってくださったんです。お母さん、自分のいのちより大切なもの、それがお母さんなんです。」
するとお母さんが涙ながらに一言、こう言いました。
「あんた、話うまいね。」
がくっときましたが、私がこのお母さんがイエスさまを信じてることを、心から期待しています。

イエスを信頼するものにもたらされる祝福

 リスナーのみなさん、イエス・キリストは道です、真理です、いのちです。聖書はこの方について証言しています。この方をもっとお知り下さい。そしてこの方に信頼して下さい。そして、永遠のいのちを持って天国に共に帰る人になって下さい。心からお勧めします。

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