新約聖書
 ところが父親は、しもべたちに言った。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。」
(ルカ15:22-23)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.743 2014年6月22日

「罪人の帰りを準備して待つ神」

おはようございます、高原剛一郎です!

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 さて、先週の日曜日は、父の日でしたね。私は先日、マイケル・ジャクソンの娘が、今は亡き父親について、インタビューに答える記事を読みました。彼女がまだ幼かったとき、父親がすることで、ひとつ嫌なことがあったそうです。それは、公の席で父親と共に人々の前に出るとき、いつもマスクのような物をかぶらされていたということです。どうしてパパは、私たちの顔を隠すんだろう。私のことを恥じているんだろうか。しかし、今、少し大人になって、その意味がわかるようになったというのです。それは、父親抜きで、自分たちだけで外出したときに、自分たちの正体がばれないようにするために違いない。もし、あの子はマイケル・ジャクソンの娘だ!とわかると、誘拐犯に狙われるかもしれません。また、何か下心を持って近づく人がやってくるかもしれません。そして何より、普通の子供のように、自由に活動できなくなるかもしれません。今思うと、パパほど、私の生涯を考えてくれていた人はいなかった、というのが、彼女の結論でした。
 人間の親でも、娘の将来は、考えに考え抜いて、してあげられることをするでしょう。ましてや、人間をお造りになったまことの神様は、それ以上に、あなたのことを心砕いて導こうとされている方なのです。聖書の中に、この創造主を、息子思いの父親になぞらえて説明されている箇所があります。ところが、この父親の心が見えない息子は、父をただただ煙たがって、家出してしまうのです。父の財産をふんだくるようにして持ち去った息子は、遠い国で遊び倒して、持てる財産を使い果たし、ついには餓死の直前まで堕ちたそのとき、彼は我に返るのです。父のところには、パンが有り余っている雇い人が大勢いる。しかし、私は飢え死にしそうだ。彼は、思い切って父のところに帰るんです。彼は、どん底に堕ちたとき、帰るべきところを思い出したのです。

どん底にいるときに与えられる機会

 私は先日、アルコール依存症で散々苦しんだ漫画家たちの対談本を読みました。彼らが立ち直っていく経験のなかには、ひとつの共通点があります。それは、底を打つという経験です。月乃光司さんという方は、若年性アルコール依存症になり、何度も、病院の入退院を繰り返します。しかし、三度目の入院のとき、看護師さんたちの会話が聞こえてきたというのです。それは、かつて入院していたAさんが、アパートで死んで発見された、Bさんは肝臓がんで亡くなった、Cさんは路上で息絶えた、というような話です。かつての入院仲間たちがどんどん死んでゆく、その結末にふれていく中で、自分が同じ道をたどっていると言うことに気がつきます。特に、入院してアルコールが切れていて、まともに考えることができるようになってみると、それまでは死にたい、と思っていたはずなのに、死にたくないという気持ちが出てきます。実は、死にたかったわけではなく、楽になりたかっただけで、本当は生きたいんだ、ということに突然気がついたそのときが、初めて、もう酒はやめよう、と決意したときだった、と言うんです。彼は、どん底で我に返ったのです。もし、私たちが今、人生に行き詰まりを感じ、壁に突き当たり、自力では越えられない何かにもがいているならば、それは、我に返るチャンスなのです。我に返って、自分のいのちの原点である作者、まことの神様のところに帰るときなのです。
 さて、父のところに帰ってきた息子は、雇い人の一人として使ってください、と父親に頼み込もうとします。その場面を、聖書はこのように語っています。

「ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて祝おうではないか。』」

   ここに、父親が、惨めな姿に変わり果てた息子を迎えるにあたって、用意なさったものが4つでてきます。

赦しを表す着物を与えられる

   第一に、一番良い着物です。着物とは、裸の恥を覆い隠してくれるものです。「一番良い着物」は、完璧な罪の赦しを表しているんですね。アメリカの心理学者、ビックマンという人は、服装の違いが生み出す反応の違いに関する実験を行いました。電話ボックスの中に、よく見えるところに10セントコインを置いておきます。そして、電話をかける人がボックスに入ってしばらくした後で、10セントコインは置いていませんでしたか、と尋ねるんです。このとき、きちんとした服装の人が聞いたときには、8割の人がきちんとした受け答えをしてくれます。しかし、汚らしい身なりで聞くと、3割の人しか、きちんと受け答えはしてくれない、という結果になりました。服装は、その人のアイデンティティーを測る物差しとみなされるのです。神様は、私たちに薄汚れた人生が似つかわしい、とは思っておられません。神はあなたに、キリストによる完璧な赦しを着せたいと願っておられるのです。

相続者として受け入れてくださる神

 第二に、父が提供したのは、指輪です。当時、指輪とは、相続者になることを意味していました。というのは、そのころの指輪には、宝石がはめ込まれていて、それが実印の代わりとされていたからです。イエス・キリストを自分の救い主として信じ、受け入れる者を、神はご自分の子供として迎え入れてくださるのです。子供であるならば、親である方の財産の相続人です。相続財産は、永遠のいのちと、次の世界における統治権です。この全宇宙の造り主が準備された相続財産とは、いったいどれほどのスケールでしょうか。神はそれを準備して、あなたを待っておられるのです。ですから、あんまりこの世の中でガツガツする必要はありません。それより、永遠の世界で意味あることに、全力で取り組めばよいのです。

自由がもたらす新しい人生

 第三に、神が提供してくださったものは、履物です。「足にくつをはかせなさい」と、父は言ったからです。父の元に帰ってきたとき、息子は裸足であったということが、これでわかりますね。そして、裸足で生活するのは、奴隷の証拠なのです。靴をはくということは、自由人にのみ許されている特権だったんですね。神が備えた靴をはくとは、真の自由人として、新しく人生を歩む、ということなのです。罪の奴隷、偶像礼拝の奴隷、死の奴隷状態から解放され、新しい自由人の人生をスタートさせる力が、神によって与えられるのです。

新しい関係に入れてくださる神

 第四に、肥えた子牛のご馳走を食べて、お祝いするパーティー、これが父が提供してくれた4番目のものです。ところで、人生とは、関係を生きることです。神との関係、人との関係が、祝福された、喜ばしいものとされていくことですね。神様はあなたを喜んで迎え入れ、そして、パーティーに象徴されている交わりの生涯の中に、私たちを導きいれたいと、願っておられる方なのです。そして、それが可能になったのは、完璧ないけにえ、肥えた子牛のような、全く傷のないキリストが、私たちに代わってあの十字架の上で死んでくださり、そして三日目によみがえってくださったことによるのです。
 どうぞあなたも、キリストを信じ、このまことの父なる神様のもとに、立ち返ってください。心から、お勧めしたいと思います。

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