旧約聖書
わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、血に染まっているあなたに、「生きよ」と言い、血に染まっているあなたに、くり返して、「生きよ」と言った。
(エゼキエル16:6)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.755 2014年9月14日

「生きよ、と呼びかける神」

おはようございます、高原剛一郎です!

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 千葉県の郊外に、いすみ鉄道という電車があります。ここの鉄道は人口の少ない地域を走っています。それで通勤でこの鉄道を使う人がほどんどいないんですね。また、沿線にめぼしい観光地がないので、毎年毎年赤字垂れ流しで、とうとう廃線寸前までいくんです。ところがこの鉄道会社は、今たくさんのお客さんで賑わってるんですね。一体、どうしたんでしょう。鉄道ファンが泣いて喜ぶ旧型車両を格安で購入して走らせたり、車内をおしゃれなレストランに改造するなど、様々な創意工夫で乗りたくなる鉄道をつくったんです。鉄道の目的を移動手段から、乗ることそのものにシフトして、乗って楽しい鉄道にしたんですね。その結果、鉄道ファンが遠くからわざわざ乗りに来るようになりました。私はこういう話が大好きです。一度だめになったものが、すばらしい姿へ再生するというメッセージは、聖書の語る福音に通ずるところがあるからです。
 さて、聖書の中にこんなことばがあります。

 「わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、血に染まっているあなたに、『生きよ』と言い、血に染まっているあなたに、くり返して、『生きよ』と言った。」

 これは神がイスラエルに対して語ったことばです。そしてそれは、すべての人々へのメッセージでもあるのです。「血の中でもがいているあなた」とは何を意味するのでしょう。それは生まれた途端に母親から捨てられた赤ん坊のことなんです。ふつう生まれたら、産湯で洗ってもらえます。しかしこの赤ん坊は生まれるやいなや、産みの母親にすら捨てられた絶望の子です。しかし、たといすべての人があなたを憐れむことがなくても、神は違います。あなたを命あるものとしてこの世に生まれさせたのは、創造主である神なのです。そして神がこの血まみれの赤ん坊に繰り返し語ることばは、「生きよ」というメッセージなんです。ここから、神が人に伝える三つのメッセージを考えたいと思います。

あなたは偶然に存在しているのではない

 第一に、あなたが生きることは、神のみこころだ、ということです。あなたに対する神さまのみこころは明解です。生きることです。どんなに辛くても、自ら死を選んではなりません。命ある限り生きることは神の命令なのです。そして神さまの命令がことばとなって発せられるとそれは必ず実現するのです。
 先日私は昔からの馴染みの古本屋を数年ぶりにのぞいてみてびっくりしました。なんと、カフェになってるじゃありませんか。「ああ、倒産して別の人がここでコーヒーショップを開いたのか。」と思ってふとカウンターを見ると、見慣れた古本屋のおやじがエプロンして立ってるんですね。「一体どうしたんだ。」というふうに言いますと、「前から喫茶店やってみたかった。古本とカフェのコラボレーションだ。」と言って笑っているんですね。全く様変わりしたその店の内装は一体どのようにして実現したのでしょう。オーナーの鶴の一声です。オーナーが、こうしよう、と言えばそれは成るんです。そして、この全宇宙のオーナーは神なのです。すべてのものの造り主の一言は、すべてのものに有効です。その神があなたに対して、「生きよ」ということばをお与えになりました。当然生きるのに必要なものは神から与えられるのです。

私たちにとって本当に生きる力とは

 第二に、この方は、私たちに「生きよ」と呼びかけて、そのことばに応答する人に生きる力を与える神なのです。与えられた人生に能動的に応えいく人に、神は惜しみない再生能力を注いでくださるのです。
 何年か前にこんな記事を読みました。野生のゾウと動物園のゾウではどっちが長生きするかっていうんです。動物園で飼われているゾウはこどもの時に病気になっても治療してもられます。また獲物にされることもありません。天変地異から守られ、ベストの住環境の中で、人間からありとあらゆる世話を受けて生きることができるんです。ですから当然、野生のゾウより長生きだと思われるのです。しかし、実際は野生のゾウの寿命の半分から三分の一の短命で亡くなっていくのです。実は何から何まで世話をされて育ったゾウは、かえって肥満になり、本来ゾウそのものが持っている荒々しい生きていく力が損なわれてしまうというのです。

創造主からいただく真の力

 私の知人に、俗称人食いバクテリアという恐るべき病原菌に侵された方がいます。九死に一生を得たこの方は、右足の付けねの腰骨から先を、全部失ってしまいました。先日久しぶりに面会した時の驚きはほんとに格別でしたね。なんと彼は、一人で車椅子に乗り込み、一人で車椅子を操作し、一人で車に乗り込み、左足一本で運転できるようにした改造車に乗り込むんです。そして私の見てる目の前で、乗っていた車椅子を車の屋根に収納する装置を操作しながら、ニッカ?と笑って「足の一本くれえ大したことねえよ。俺には主がついてるんだからな。」と言ってのけたのでした。できる限り人を当てにせず、自分でできることは限界まで自分でやろうとするこの人に、神が勇気とパワーを注いでいるのは明らかでした。天は自らたすくる者を確かに助けてくださるのです。

どこまでも近づかれる神

   第三に、永遠に生き続けるいのちを選ぶように、という意味でも、生きよ、生きる道をいのちの道を選ぶように、と言われてるのです。
   昔、アフリカに宣教に渡った方に、リビングストンという人がいました。彼がまだ若かった頃の話です。彼のお母さんはアイルランドの出身だったのです。そしてアイルランドの古いことばであるゲール語で生まれ育ったのです。それは、英国社会の中ではまず通じない、古い、そして少数民族のことばです。しかし、お母さんには英語はあくまでもよそよそしい外国のことばであって、英語の聖書のことばもまた、心に入ってこないことばになっていたのです。それを知った若き日のリビングストンは、いっしょうけんめい難解なゲール語を学習し、そしてマスターしたのです。なぜでしょう。ゲール語を使って、神の福音をお母さんに伝えるためであったのです。そして、自分のふるさとのことばに訳された聖書のことばは、母親の心の深いところに、みごとにしみこんでいったのです。

あなにいのちを提供してくださる方

 いかに偉大な真理も、相手に届く架け橋なしにはどうにもなりません。神は偉大ないのち、そのものなる方です。しかし、この神が人に永遠のいのちを届けるためには、人と同じようにならなければならなかったのです。この人となられた神こそは、イエス・キリストなのです。キリストは私たちが永遠のいのちを持つために、この世にくだり、あの十字架でいのちを捧げ、死後三日目によみがえり、救い主として自らを宣言なさったのです。
 どうぞ、あなたのために救い主となられたこのイエス・キリストを、ぜひ受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。

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