新約聖書
「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
(ローマ5:8)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.782 2015年3月22日

「自己像の健全化」

おはようございます、高原剛一郎です!

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 以前函館に参りました時、石川啄木の記念館に行きました。学芸員の方がいろんなエピソードを交えて説明してくださったのでとても印象に残っています。この啄木の詩に次のようなものがあるそうです。『石川は不憫な奴だ ときにこう 自分にいいて かなしみてみる』自分のことを不憫な奴だと考えると悲しみが出てくるという、ごく当たり前のことを歌っています。人間は否定的な考え方をすると否定的な感情が生まれ、破滅的な考え方をするとやけくその気持ちが湧いてくるものです。ある心理学者によると、人間て言うのは四六時中自分に話しかけている動物で、その話しかけている内容のほとんどが否定的なんだそうです。そして否定的な考え方は否定的な自己像から生まれて来るものです。

自己像は他人との関わりの中で形成される

 この自己像というのは一体どうやって形成されていくんでしょう。第一に、親や友人、他人との関わりの中で植えつけられていく面があると思います。元FBI捜査官、ロバート・レスラーという方によると、凶悪犯罪者の家庭にはいくつかの共通点があるようです。犯罪者の半数が12歳以前に父親が家を出たか、18歳以前に自分が家を出ているというのです。多感な少年時代に一家の中心人物から認められず、励まされず、愛されない場合、その少年の精神構造と世界観に重大な影響が及ぶって言うんですね。孤独な子供時代を過ごした者が皆、犯罪者になるのではありません。しかし、大きな犯罪を犯した者は皆、孤独な子供時代を送っているのです。ではどうすればいいんでしょう。イギリスではテロや犯罪に走る若者たちを未然に防ぐために、メンタリングという方法が取られているそうです。これは人を育成し指導する方法の一つです。但し、指示をしたり、命令したりすることで人を動かすのではありません。メンターと呼ばれる指導者が1対1で向き合って、親身に対話を通し、親身に対話をして、相手に気付きを起こさせていくという方法なんです。メンターというのは心の師匠のような存在です。そして、それは代理の父親なのです。自分のことを親身に思ってくれる人からの励ましと勇気付けが人間の健康にはとっても大事なんだって言うんですね。

人は自分を励ますことができない

 人は自分一人で自分を励ますことは本当に難しいことなんです。しかし、人間の自己像を否定的なものに陥らせるもう一つのものがあります。それは人間一人一人の中に備わっている罪への傾向なのです。あなたは自分にがっかりするというようなことはありませんか。私は昼間に自分が言った言葉の中で、「あぁ、言うべきでなかったなあ」とがっかりします。自分よりもてき ぱきといろんな仕事を首尾よくこなして成功している人を見ると、素直に祝福できない自分にがっかりします。何十年も前のことなのに恥をかかされたことを不意に思い出して、心の中で相手をとっちめてる光景を想像して、何をやっとるんだ私は!と愕然となる、そのようなことはありませんか。人間は自分が軽蔑していることをやめることが出来ずにいると、行為を軽蔑するだけではなく自分自身そのものを軽蔑するようになってしまいがちです。一体どうしたらいいでしょう。聖書はこう言っているのです。

「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

人は神のかたちに似せてつくられた

 この箇所から三つのポイントで自己像の改善をお話ししましょう。第一に、あなたをお造りになった創造主がまことにおられる、そして、この神はあなたを神の形に似せてお造りになりました。あなたには神を現す何かが内側に備わっているのです。神の形とは人格のことです。あなたは人格を持つものとしてこの世界に造られて置かれているのです。この一点だけであなたは宇宙にあって宇宙を超える存在です。と言うのは宇宙には人格がないからです。太陽はとっても熱い天体ですが、太陽自身は自分が熱いということを知りません。水素とヘリウムの塊である太陽には自意識がないのです。ところが、あなたには自分が小さいとか、弱いとか、客観的に自らを知ることが出来るのです。そして、それは あなたが神の形に造られているからです。そして、このことの故にあなたはユニークな存在であり、神様の前に非常に高価で尊い価値ある存在なのだと聖書は宣言しているのです。

キリストは私たちのために死んでくださった

 第二に、私たちがまだ罪人であった時に、キリストは私たちのために死んでくださったという事実です。私たちがほれぼれするような人であった時に、神は愛してくださったと語ってるのではありません。私たちがまことの神を捨て、自分の造り主を忘れ、自分で好き勝手にこしらえた神を拝み、自己中心の人生を生きてる、そんな罪のどん底状態の時に、神の一人子はこの地上の無限の彼方から、人としてこの世に生まれてくださいました。そして、何一つ罪を犯したことがなかった方、いや良いことしかなさらなかった方なのに、人 々から呪われ、拒まれ、殴られ、裸にされ、釘で両手足を打ち抜かれ、十字架にかかられました。そして、その十字架の上で私たちのすべての罪を負って身代わりに刑罰を受けてくださったのです。これは神様の愛の宣告です。あなたの罪を消し去るためにキリストがここまでしてくださるほどに神はあなたを愛しておられるという愛の宣言なのです。もしあなたが神にとってどうでも良い存在であるなら、神様は決してこんなにも大きい犠牲を払うことはありませんでした。あなたは最も絶望的な時ですら神に愛されている人なのです。

神は私たちを新しくつくり変えられる

 第三に、神様は私たちを新しく造り変えてくださる方だということです。神は人間が愛されるにふさわしくない時に一方的に愛してくださいました。それはこのキリストを救い主 として受け入れる者の中に、愛されるにふさわしいものを形作っていかれるためであったのです。一体どのようにして私たちを愛されるにふさわしい人格へと造り変えていってくださるのでしょう。キリストを十字架上の死から三日目によみがえらせた力を、私たちのうちに働かせることによって、私たちを変えていってくださるのだと聖書は語っているのです。人はどうやって自分の自己像を健全に変えていくことが出来るでしょう。神に似せられて造られたということを心に留め、神に愛されているという事実を受け入れ、神によって理想の姿に変えられていくことを信じて受け取ることで、セルフイメージが健全に変えられていくんですね。どうぞあなたも、あなたのために救い主となられたキリストを信じて ください。心からお勧めしたいと思います。

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