旧約聖書
「わたしに問われなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。」
(イザヤ65:1)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.785 2015年4月12日

「呼びかける神」

おはようございます、高原剛一郎です!

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 さて今世界ではコンピューターの技術革新がすさまじい勢いで進んでいます。それで今まで人間にしかできないと思われていた仕事が、人工知能付きロボットに取って代わられようとしているんですね。オックスフォード大学の研究では、あと10年で消える職業が77%もあるって言うんです。例えば、グーグルという会社は無人で走る自動運転車を開発しました。これが世界中にこれから広まっていくと言われてるんですが、もしそうなったらドライバーの仕事はなくなってしまうことになります。
 また金融界では人間のトレーダーよりも大量かつ迅速に、コンピューターが決済資料に基づいて判断を下しているということがすでに現実になってるんですね。また医療分野でも、ニューヨークのがんセンターではコンピューターが診断と治療方針を提示しているそうです。そして、それが大変に好評なのです。と言うのは、コンピューターは60万件の医療報告書、150万人の患者の臨床データ、200万ページの最新医療雑誌をあっという間に検索して、その患者個人の症状に最も良い診断と解決を示すからです。

人との健全な交わりが大切

 今までは技術革新と言うと、たいていは肉体労働を機械化する事でした。しかし21世紀の技術革新は、これまで人間の領域とされてきた認知能力を必要とする仕事を機械化するということなのです。それで消えてしまう仕事がどんどん増えてくるっていうんですよね。しかし、どんなに人工知能が発達しても決して人間に取って代われない仕事は必ずあります。それは創造力を使う芸術家の仕事や、あるいは人格の交流を担う仕事はまさにそうなんです。心を持ってる人間は心を持たないロボットでは満たされないからです。人格あるものは人格あるものとの健全な交わりなしに満たされた幸せな人生を歩むことはできないのです。
 学校生活が充実するかどうかは何で決まるでしょう。クラスの人間関係ではありませんか。社会人生活がやりがいのあるものとなるかどうかは何で決まるでしょう。社会の中での、あるいは会社内での人間関係ではありませんか。夫婦生活が幸福であるかどうかは住んでる家のサイズでは決まりません。夫婦の間の人格的交わりが健康的であるかどうかということが決め手なのです。聖書は私たち人間にとって最も大切な人格的関係について語っている書物です。最も大切な方との関係が破たんしたままで本当に祝福に満ちた人生を歩むことはできません。さて聖書はこう語っています。

「わたしに問われなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。」

祝福に満ちた人生の秘訣

 ここから三つのポイントでお話しいたしましょう。
 第一に、人間は自らを造ってくださった作者なる神を問わず、探さず、呼び求めなかったということです。聖書の語る神様は人間が作った宗教の神々のことではありません。人間をお造りになった方、あなたの作者なる方、世界の第一原因者、万物の目的者なのです。つまりこの世界にあるすべての者のオーナーなのです。人間はこのオーナーである神様を無視して、まるで世界が自分のために存在しているかのように生きています。そして自分自身がこの世界と自分自身のオーナーであるかのようにふるまっているのです。聖書は真のオーナーを無視して生きることを罪と語ってるんですね。
 先日、私の友人がスマートフォンのLINEのアカウントを乗っ取られるという災難に遭いました。まったく見知らぬ赤の他人が、いつの間にか自分のアカウントを乗っ取って、そして本人であるかのように成りすまして、沢山の友人に代理でiTuneカードを買ってほしいと頼み込んでいたって言うんですね。まあ彼が激怒したのは言うまでもありません。本人の権利やIDナンバーを無断で奪い取って、自分の支配下において、好き勝手に悪用するってことは許されないサイバー犯罪です。権利のないものがオーナーの権利を横領するということは悪なのです。しかし、それと同じようなことを実は人間は神に対してしているのではありませんか。この世界の本当のオーナーである神様を否定して、自分がオーナーのようにして生きているなら神に対する乗っ取り犯と同じことなのです。

神の呼びかけ

 第二に、神はこの反逆する人間に優しく呼びかけておられる方だということです。私はここだ私はここだと先ほどの聖句にありました。なぜ神様は呼びかけておられるんでしょうか。それは神が人格ある方でそしてあなたも人格あるものとして造られてるからです。人格とは呼びかけに答えることが出来る者なんですね。物に向かっていくら話しかけても返事は期待できませんね。しかし人格は違います。神は呼びかける神です。あなたの人生の中で聖書を通し、映画を通し、クリスチャンの友人を通し、ペットとの交流や、自然界の美しさや、雑踏の中での孤独を通してあなたの心を本当に満たすことが出来る神は「ここだ私はここだ」と呼びかけておられるのです。そして神様は何よりもイエス・キリストに置いて私たちに呼びかけておられる方です。

身代金を支払ってくださったイエス

  キリストはある時言われました。「人の子は失われたものを探して救うために来たのです」と。人間が神とはどのような方であるかをイメージするためにイエス・キリストは神の一人子なのにこの世に来てくださったのです。ある方はこう言いました。イエス・キリストは生まれてくることを選んだ唯一の方であり。死ぬことを選んだ人たちのうちの一人です。イエス・キリストは、ご自分がこの世に生まれてきたのは、死んで私たちを赦すためであると言われました。彼は私たちが罪の結果から解放されるために、身代金として自分の命を捧げるためにこの世に来られたのです。
 さてこの身代金という言葉はもともとは奴隷市場から始まった言葉なんですね。ある親切な人が奴隷を買い取り、その後、解放してくれるとしましょう。そのためにはまず身代金を払わなければなりませんん。キリストは十字架の上で流された血によって身代金を支払ってくださいました。それによって私たちは罪の結果の裁き、永遠の地獄から解放されるのです。

私たちの応答が事を決する

 第三に私たちが応答するという事です。
 キリストは死んで後三日目に復活なさいました。死をも粉砕された神の力とはいったいどれほどにすさまじい程でしょう。そして、そのような偉大な力こそはあなたに必要なものではありませんか。神様はそれを喜んであなたに提供してくださる方です。どうぞあなたものこのイエス・キリストをご自分の救い主として信じ受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。

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