新約聖書
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」
(ピリピ2:6-9)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.803 2015年8月16日

「合理性のあるキリストの復活」

おはようございます、 高原剛一郎です!

カット
 先日、私は「宇宙の人間原理」という本を読みました。ひとことで言うと、宇宙というのは、人間が誕生するように何者かによって絶妙に調整されているんだ、という考えなんです。たとえば、太陽は毎秒毎秒、すさまじいエネルギーを放出していますね。この太陽のエネルギーを生み出しているのは重力です。太陽はみずから、重力によってみずからの中心に向かって圧力をかけ、核融合反応を起こして、その結果として莫大な熱エネルギー、光エネルギーを放射しています。この太陽が捨てたエネルギーを使って、地球上の生命体は生きているんですね。
 ところで、この宇宙には太陽のような莫大なエネルギーを外に捨てている星が何百億もあるんです。もし、この宇宙が閉じてしまっていて、大きさが変わらなかったなら、それらの星々が捨ててきたエネルギーがどんどん溜まって充満し、宇宙全体が何千度にもなり、すべての物質は壊れてガス状になって落ち着く以外にはないのです。ところが、実際にはそういうふうにならないのは、宇宙が膨張していて、エネルギーが捨てられる場所を作り出しているからなんです。

すべてを調整しておられる方の存在

 このエネルギーを生み出す重力と、その捨て場所を作り出している宇宙の膨張率が絶妙なバランスで保たれているので、私たちは生きることができている、って言うんですね。宇宙は人が生きるために何者かによって調整されているように見えて仕方がない、というのがこの本の趣旨でした。
 さて、聖書は、この全宇宙を秩序あるものにお造りになった方を紹介しています。それは、神です。この宇宙の第一原因者なる方を、聖書は「神」とか、「創造主」と呼んでいるのです。そして、神は、宇宙の中では砂粒のように小さな地球に住む、また小さなちいさな私たち一人ひとりを深くふかく愛しておられる、と語るのです。今日は、この神が私たちを愛して与えて下さったキリストのみわざを考えてみましょう。
 聖書に、このように書いてあります。

「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」

さて、ここから3つのポイントで考えたいと思います。

キリストとは何者か

 第一に、キリストは人としてこの世に来られた神の御子である、ということです。
 数年前、天皇陛下と美智子皇后が東日本大震災のセレモニー行事にご出席なさったときのことです。普段はお洋服でご出席なさることの多かった美智子皇后が着物を希望された、という記事がありました。理由は、術後の天皇陛下が万一倒れられるようなことがあった際に、すかさずお支えするためだというのです。洋服だとハイヒールを履くことになりますので、それでは支えきれないかもしれません。しかし、和服であるなら草履ですね。もしものとき、踏ん張ることができる。そうお考えになられて着物を強く望まれた、とあったのです。ご自身のファッションよりも、一番大切な方をお支えするための装いを選ばれた、というのです。
 神のひとり子はなぜ神のあり方を捨てて、人間の体という装いを身にまとって、この世に来られたのでしょう。罪人を支え、励まし、救うためです。みずから人となることで、人の弱さを実感し、人であるあなたをしっかりと捉え、支え、守るために、この方は肉体をもってこの世に来て下さったのです。

キリストがこの世界に来られた理由

 第二に、キリストは十字架の死を引き受けるためにこの世に来られた、ということです。人間にとって死は、避けることができないものですね。しかし、罪なきキリストにとって、死は、そもそも無関係のものです。キリストは、死なない方です。死の原因である罪が無い、神の子であるからです。そのキリストが、十字架にかかって下さいました。それは、人間のすべての罪を引き受け、人の身代わりとして神様の裁きを受けるためであった、と聖書は語るのです。

キリストの復活を考える

 第三に、神はこのキリストを死からよみがえらせ、高く上げ、救い主であることを明らかにされたのです。一度は私たちの罪を負って死んで下さったキリストが、死後3日目に死を突き破って復活して下さったのです。私たちの経験則では、死んだ人間が二度と死なない体で復活して天に昇った、などということはありえないことですね。いや、復活に限らず、キリストがなさったという数々の奇跡もありえないことだ、と論じる人々が特にこの日本の中では一般的だと思います。しかし、オックスフォード大学の数学者であり、またクリスチャンでもあるジョン・レノックスという人は、次のように語っています。「奇跡は、閉鎖系のシステムの外側から膨大なエネルギーをつぎ込んだために起きる事象である。」いやあ、難しいですね。わかりやすく説明すると、こういうことです。

自然法則を越えた方のわざ

 ある夜、オフィスの引き出しに一万円を入れたとします。次の夜も同じように一万円を入れます。これで合計二万円ですね。ところが、3日目に引き出しを開けてみると、五千円しか入っていないではありませんか。さて、こういうことが起こったとき、普通の人は、数学の法則が破られた、とは考えません。これは、誰かが一万五千円を抜いていっただけのことなんですね。数学の法則や自然法則には、人間の行為を止める力は無いのです。そこで、レノックス教授は次のように推定するんです。「復活を始めとするキリストの奇跡は、自然法則に反したものではない。復活は、神が歴史という引き出しの中に手を入れ、死という一万五千円を取り去った結果、起こったのである。自然界が、外部からの進入を許さない閉鎖系であることを証明しない限り、誰も、キリストの復活の可能性を否定することはできない。」私たちの住んでいるこの地上の世界においても、独裁国家では、独裁者はその国の法律に縛られずに、自由に行動していますね。自然法則を造られた神は、自然法則を尊重なさいますが、みずからは自然法則に縛られてはおられないのです。神は、自然法則を超えて、ひとり子の神を人間の姿にし、いのちの君に死を経験させ、そして3日目によみがえらせて下さったのです。
 どうぞ、このイエス・キリストをご自分の救い主として受け入れて下さい。心からお勧めしたいと思います。

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