旧約聖書
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」
(詩篇23:1-2)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.818 2015年11月29日

「主は私の羊飼い」

おはようございます、尼川匡志です!

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 あと一ヶ月とちょっとで2015年も終わりますよね。本当に早いですね。今年一年はどんな一年だったでしょうか。私は正直、去年の今頃にはとても考えることができなかったような出来事にいくつも遭遇しました。そして、多分、来年の今頃も、考えることもできなかったことに出会いました、というようなことを言っているような気がします。
 過去の出来事はよく分かりますが、これから先に起こってくる未来の出来事については、さっぱり分からないんですね。ですから、人生を歩んでいくことは簡単ではないんです。目の前に壁が立ち尽くし、岐路でどちらに行けばいいのかが分からず、天を仰ぐときがあります。あるときは仕方なく、一か八か賭けのような選択をしたり、占いや運勢に頼ろうとしたりすることもあるんですね。自分の人生なんですが、その舵取りはとても難しいんです。

詩篇23篇

 さて、聖書の中に詩篇という箇所があります。それを今日はまず紹介したいと思います。

主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたが私のために食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

3000年前のイスラエルの王 ダビデ

 これはダビデという、今から三千年以上前のイスラエルの王様が書いたと言われる詩です。このダビデ王は、絶体絶命のピンチを何度もくぐり抜けてきた人物なんですね。
 そして晩年、自分の人生を振り返って書いたと言われるのが今の詩です。ダビデは最終的に幸いな人生を歩んだというのは分かります。なぜなら、いつくしみと恵みとが私を追いかけて来るんだ、と言ってるからですね。何度もピンチに遭うんですが、最終的に幸せになった。

ダビデが幸せであった理由

 このダビデという人物が強運の持ち主だったからでしょうか。いいえ、そうではないんですね。では、何故彼は幸いな人生を送れたのか。それがこの詩の冒頭に書かれています。

主は私の羊飼い

 これが鍵なんです。ダビデは自分を羊になぞらえ、神を羊飼いと表現しています。そして、この羊飼いなる神が、ダビデという羊を導いて行った結果、ダビデは幸いな人生を歩むことができた、というんですね。
 ダビデの人生は決して平坦ではありませんでした。「私の敵の前で」とか、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても」とか、「わざわいを恐れません」とか、これらの表現の中に、それらのことがよく表れています。つまり、問題だらけの人生だったのです。しかし、紙が私を導いてくださった、だから幸いな人生を歩けたんだ、という詩なんですね。

神は私たちに声をかけておられる

 聖書が語る神は、私たちの願い事をかなえるために存在している方ではありません。何のトラブルも起こらない人生をあなたに提供しようという訳でもありません。人生にはトラブルやアクシデントがつきものなんです。ある時は、悪意に満ちた他人が、あなたのことを故意に傷つけることも、悲しみに突き落とすことだって起こり得るでしょう。想定外の病に襲われることだってあり得るんです。それが人生ですね。
 しかし、神はそのとき、決してあなたに無関心でおられる訳ではありません。落ち込み、悩み、これからどうすればいいのかが分からず、迷い彷徨うあなたを緑の牧場、いこいの水のほとりに導いて行きたいんです。そのために神はあなたに声を掛け続けておられる、というんです。

注意を向けなければ気づかない

 随分前ですが、ある方のエッセイの中に、こんなことが書かれていました。その方はあるとき友人と二人で都会の雑踏の中を歩いておられたんです。すると、路地の物影から、秋の虫の細い鳴き声が聞こえてきたんです。二人は、こんなところでも、秋の虫が鳴いているんだね、と話し合ったそうです。
 しかし、道行く人は誰もその虫の声に気づく様子はなかったんですね。そのとき、やおら友人がポケットから百円硬貨を取り出して、道に落としたそうです。「チャリーン」。すると、今まで素通りしていた人たちが、何人も立ち止まって、その硬貨の方に目を向けたんですね。その友人はこう言われたそうです。「関心のあることしか人間の耳には入らないようだね」。
 私たちは、注意を向けていなければ、何度声をかけられても聞こえないときがあるんです。たとえ耳に入ってきても、意識に留まらなければ聞いたことにはならないかも知れません。

主は戸をたたいておられる

 聖書にこのような言葉があります。

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

 この聖書の言葉は、人間の心の様子を描写しています。戸の外に立ってたたいておられる方は、イエス・キリストです。イエスは心の戸の外に立って、中におられる人の名を呼び続けておられるんですね。その扉の内側で座っているのが、実はあなたなんです。イエスは、あなたの心の扉をずっとたたき続け、名前を呼び続けておられるんです。
 この方は決してその扉を無理やりこじ開けて入ろうとはされません。あなたが自分の意志で、喜んで迎え入れてくれるその時をじっと待っておられるんです。もしあなたが心の中で、この神なるイエス・キリストに、「どうぞ私の心の中に入ってください」と決心し、自分で扉を開くなら、この方はあなたの心の中に入ってきてくださるというんですね。そして、親しくあなたと話してくださるんです。

主はあなたの羊飼い

 先ほどの詩篇で、ダビデは、「主は私の羊飼い」と言いました。あなたがご自分の心の扉を開かれるということは、このダビデの心の状態になるということです。イエス・キリストは私の主です、イエス・キリストは私の羊飼いです、と告白することなんです。そして、そうなったとき、今まで戸の外で立って語っておられたその言葉が、あなたの心の内に響くようになるんですね。
 そして、その声に従うことができるようになるんです。イエスはあなたの心を支配し、コントロールしたいのではありません。あなたを導いて、災いや敵や死の陰の谷があっても、安全な天国へと導いて行きたいんです。人生を振り返って、私の人生は、いつくしみと恵みとが追って来るような人生でした、とあなたが告白できるようになって欲しいんですね。
 イエス・キリストをあなたの主とし、羊飼いとし、受け入れ、信じてください。心からお勧めしたいと思います。

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