新約聖書
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」
(ヨハネ3:16)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.824 2016年1月10日

「思いがけないものを愛する神」

おはようございます、高原剛一郎です!

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ところで、「絵に描いた餅」という言葉がありますね。紙の上に描かれたお餅は、それがどんなにおいしそうに描かれていても、実際、腹をみたすことはありません。そこから「役にたたないこと」をたとえる表現になっています。しかし、もし、東山魁夷画伯の描いた餅の絵であるならばどうでしょう。おそらく十数万円、いや、ひょっとしたら数十万円でも買う人がいるかもしれませんね。そして、そのお金で餅を買ったら、何十人もの人のおなかを満腹させることができることでしょう。
絵に描いた餅であったとしても、作者が飛びぬけた天才の手によるものであるなら価値がつくんです。つまり、価値というのは、誰の手による作品であるか、ということが決定的なことなのです。
そして、聖書によるならば、あなたは最高に偉大なかたの作品です。この天地万物をお造りになった創造主の手による作品であるからです。

神は世を愛された

今日は、あなたをお造りになったまことの神様のことばの中でも、飛びっきり有名なところをお話しいたしましょう。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ここには、あなたの造り主である神はどんなかたで、そして何をして下さったか、ということについて書かれています。
神とは一体、どんなかたなのでしょう。「世を愛する」かただ、というんです。「世」っていうのは、神にさからい、あるいは無視し、自己中心となって生きている罪人のことをさす言葉なんです。神様はそのような人間、そのような世を愛しているとおっしゃるんです。

立派な人が神に愛される?

むかし、集会の日曜学校に初めてやって来た子供に、お話の途中で聞いてみました。
「きみは、しんだらてんごくにいくのかな、それともじごくにいくのかなあ」
すると、彼は立ち上がって答えました。
「いいことをしたひとはてんごくにいくし、わるいことをしたひとはじごくにいくとおもいます。ぼくは、いいこともわるいこともりょうほうしたから、ちゅうごくにいきます」
ざぶとん一枚、あげたくなるような回答でした。しかし、子供だけではなく大人になっても、大体のかたはこれと似た考え方をなさっているのではないでしょうか。
つまり、よいこと・正しいこと・立派なことをした人は神に愛されて天国に行く。でも、悪いこと・不正なこと・いやしいことをした人は、神に憎まれて地獄に行く、という考えです。立派な人は神に愛されるが、不遜な人は神に嫌われている。そんな思い込みがあるように思うんです。

幸福の黄色いハンカチ

私の好きな俳優、高倉健さんが出演した映画に「幸福の黄色いハンカチ」という作品があります。北海道・夕張の炭鉱夫であった健さん扮する主人公は、トラブルに巻き込まれてやくざを殺してしまうのです。
彼は6年の懲役刑を受けて、刑務所に入所中、妻に離婚状のはんこを押させるんです。自分のような者と夫婦でいるということは、彼女の将来にマイナスにしかならないと考えたのです。嫌がる彼女に捺印を強いたのは、彼なりの愛情表現でありました。ところが、いよいよ出所が近づいたとき、彼はたまらなくなって、一枚ハガキを出すんです。
「今でも君が独りでいて、そして僕を赦して、受け入れてくれるんなら、家の庭先の鯉のぼりのポールに黄色いハンカチを一枚、結んでおいて欲しい。黄色いハンカチが結ばれていなければ、君に逢わずに去ります。そして二度と夕張には戻りません」
出所してから知り合いになったカップルの車に乗って、彼は夕張の家に近づきます。しかし、どうしても見る勇気が出てきません。それで、
「やっぱりやめよう、自分から関係を切っておいて、今さら何を考えているんだ。引き返そう」
と言い出すんです。しかし、同行者の女性が一喝するんですね。
「何を言ってるの、どうして確かめずに行こうとするの。万一、待っていたらどうするの。万一っていうことがあるでしょうが、万一っていうことが!」。
とうとう家の近くに来たとき、それでもポールを見られない彼に代わって、同行者のひとりの男性が歓声をあげるんです。見ると、何十枚もの黄色いハンカチがたなびいているんです。一枚だけではなく、ポールから伸びた何本ものロープに、何十枚もの黄色いハンカチがたなびいているんですね。それは、しぶしぶあなたを受け入れてあげる、とか、仕方なしに赦します、というのではなく、大歓迎で、あなたの帰りを待っていました、という無言の意思表示なのです。
自分の中で想像していた妻と、実際の妻の心のギャップに、彼は感動して、そして、赦しに勇気を得て妻のところへ行くのです。彼女は勝手気ままな主人公を、それでも愛して、赦していた、というのがラストシーンでした。

神様は罪人を愛された

ところで、多くの人は、善人は天国へ行き、悪人は地獄へ落ちる、と考えます。立派な人なら神に愛されるが、醜い人生を生きてきた人は神に呪われている、と想像してしまうのです。
しかし、聖書自体は何と語っていますか。「神は世を愛された」と書いてあるのです。「世」とは、神に反逆し、自己中心に生きる、反逆者なる人間、罪人のことなのです。
神様は「反省した世を愛した」とは書いてありません。「悔い改めた世を愛した」とも書いていないのです。「世を愛した」、世を、世のままで愛された、罪人を、罪人のままで愛したというのです。つまり、神の前に愛されていない人、可能性のない人は、ひとりもいないのです。

罪の解決の方法、十字架

神はこの罪人に、永遠のいのちと完全なる赦しを与えるためにして下さったことが、次の行に書いてあるのです。神は、実に、そのひとり子、イエス・キリストを十字架の上で完全に、徹底的に打ち砕いて下さったと、聖書は語るのです。それは、あなたの罪の償いをイエス・キリストにさせるためだったのです。
罪を未解決のまま持って天国に入ることはできません。そして、罪を自分の力で解決できる人も、ひとりもいません。そこで、神様は人に代わって、人の罪の処分を成し遂げて下さったのです。
その方法とは、まったく罪のないイエス・キリストが、あなたの全ての罪を背負って、神の正義の裁きを受けて、十字架の上で死ぬことでした。この死の後、キリストは3日目に、死を突き破って滅ぼして、永遠不滅のからだを持って復活なさったのです。
だれでも、このキリストを自分の救い主として信じるなら、永遠のいのちを持つ者となります。それは、神が保証して下さっているのです。鯉のぼりのポールにたなびくあの黄色いハンカチは、妻による赦しと愛の宣言です。そして、それ以上に、あの十字架の上で真っ赤な血を流して下さったイエス・キリストは、それ以上に完璧な神による赦しと愛の宣言なのです。
どうぞあなたも、イエス・キリストを信じて、永遠のいのちをいただいて下さい。心からお勧めしたいと思います。

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