新約聖書
「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます・・・このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。」
(1ヨハネ4:15-17)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.830 2016年2月21日

「最後の審判に備える」

おはようございます、高原剛一郎です!

カット
私は中学一年生のとき、五階建て校舎の二階にある教室で学んでいました。上の三階から五階は体育館になっていたんですね。
あるとき、クラスのみんなの前でホームルームの司会をしていました。すると窓の外に炎のようなものが見え隠れするのです。よくよく目を凝らしてみると、間違いありません。火事です。それで私は大声で、「この校舎が燃えてるぞ」と、叫びました。ところがみんなは「何言ってるねん」といったような様子で、にやにや笑っているのです。しかし次の瞬間、ものすごい炎が見えたのです。みんな一斉に教室の外に逃げ出しました。私は隣のクラスに行って火事を知らせました。
そのとき、まだ授業中です。しかし、授業の邪魔になったとしても、これはどうしても伝えなければならないことでした。なぜなら、命がかかっている情報であるからです。結局、校舎は全焼しました。体育館の隅で、隠れてタバコを吸っていた三年生による火の不始末が原因であったのです。
今でも印象深く覚えているのは、クラスのみんなののんきな表情です。頭の上で火が燃え盛っているのに、ただ感じないから、見えないからということで平気でいたんですね。しかし、それを先に知った人は、知らせなければなりません。

聖書が語る究極の危機

実は永遠のベストセラー聖書は、人類に迫る究極の危機を前もって知らせている命の情報なのです。今日はその核心部分をまずお読みいたしましょう。

また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

これは聖書の一番最後の書物、黙示録に出て来ることばです。ここから三つのポイントでお話しいたしましょう。

人は死んで終わりではない

まず第一に、聖書ははっきりと人間は死んで終わりではない、死んだ人々は全員、一人残らず、最後の審判の御座の前に立つ、と警告しているということです。 それは、大きい者も、小さい者もです。生きているときには、大きい者、小さい者、力のある者、力のない者、権力のある強い者、弱い者、豊かな者と貧しい者、このように明確に格差がありますね。しかし、死後の御座に立つという点において、すべての人は平等です。この世の中には、亡くなって行方不明のままになっておられる方々もいらっしゃいます。
しかし、たとい海の底に身体があったとしても、エベレストの山のどこかに隠されていたとしても、この最後の審判のときには一人ひとりが呼び出されます。というのは、海はその中にある死者を出すと書いてあるからです。

神の御座の前での裁き

第二に、この御座の前に立った人々は、生きていたときにどのような人生を生きたかについて、数々の書物の記録に従って調査がなされます。この書物は人間が書いた本ではありません。これは、人間の一生を記録した神の書物です。
実に聖書は私たちのしたこと、しなかったこと、言ったこと、言わなかったこと、思ったこと、思わなかったことのすべてが正確に記録されている、数々の書物があると語っているのです。この地上の裁判ではときどき冤罪ということがありますね。不正確な証拠や、不正直な証人によってでっち上げられて、汚名を着せられた人々が今も世の中にいるんです。こういう間違った裁判結果は、新たな証拠の発見でくつがえる場合があります。決め手になるのはあくまでも信頼出来る新しい証拠です。丹念に調べることで、隠されていた事実が浮き彫りにされるということがあるのです。
ところで、人間でもメモや、CDや、DVDや証拠として記録することのできる媒体を次々の開発できますね。とするならば、この全宇宙をお造りになった神が、私たちの一生のすべてを記録するのはもっと簡単なことではないでしょうか。私たちの人生のすべての記録は、神の手にある数々の書物に書き込まれていると聖書は語るのです。

永遠の滅び

第三に、これらの書物に従って下される判決の結果は、火の池と呼ばれる永遠の滅びなのです。それは二度と出て来ることができない恐るべき世界です。それは本来、人間の行くべきところではなく、死が滅ぼされるための場所であると、聖書は語っています。この火の池のことをギリシャ語でゲヘナと言います。これは、ベンヒノムの谷という地名から出て来たことばなのです。ベンヒノムの谷というのは、エルサレムの南を走っている谷なんですね。
私はこの一月に、この谷を歩いて来ました。非常に深い谷です。昔、この谷では、子どもたちを生贄として焼き殺すという恐ろしい現地宗教が蔓延していました。イスラエルのヨシヤという王様は、この恐ろしい儀式をやめさせるために、この谷を汚したんです。以来、この谷は、町の廃棄物や処刑された人の遺体を焼く焼却場となったのです。
エルサレムに住む人たちにとって、もっとも忌まわしい場所、それがベンヒノムです。そこから転じてゲヘナということばが生まれます。そこは何の望みもない、さばきの場所なんです。ところが、最後の審判では、このゲヘナに行く宣告を受けた人々が誰一人として、ひどすぎるんじゃないかとか、刑が重すぎるのではないかと不満を述べることが一切ないのです。皆が自分のしてきたことを数々の書物によって、丸裸にされているために弁解することができないというのです。

天国に行くための備え

さて、聖書はなぜこのように聞いて不安になるようなことを書いてあるのでしょう。前もって警告しているは、そこに行かずに済む道が、すでに備えられているからです。ゲヘナではなく、天国に行くための準備をさせるために、神様はこの耳に痛い情報を語っておられるのです。
聖書はこうも語っています。

だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます・・・このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。

キリストの十字架による罪の赦し

さばきの日にも少しも恐れることなく、怯えることなく大胆にしていられることができる方法は一つだけです。それはイエス・キリストという弁護士を持つことです。
イエス・キリストは私たちの罪の求刑に対して、その刑をご自身が身代わりになって引き受けてくださった方です。そして、人がゲヘナで受けるさばきを、あの十字架の上で受けてくださったんです。そればかりか、三日目に復活し、今は神の前にあなたのとりなしをしてくださっている方なんです。キリストの犠牲の大きさと、とりなしの完全さで、あなたは完全にさばきの日にも守られるのです。そして神様の前に罪ゆるされた人、いや、罪ゆるされただけでなく、神の記録の書物に、あなたの罪の一切が消去された人、罪の記録がどこにも見当たらない人とされるのです。
どうぞ、あなたのためにすべてを成し遂げてくださったこのイエス・キリストをご自分の救い主として受け入れてください。心からおすすめしたいと思います。

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