新約聖書
「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、
幸いである。
主が罪を認めない人は幸いである。」
(ローマ4:7-8)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.842 2016年5月15日

「自分と向き合いキリストを見上げる」

おはようございます、高原剛一郎です!

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おはようございます。高原剛一郎です。
イギリスが生んだ人気作家にサマセット・モームという人がいます。彼の作品はどれもこれも文章がわかりやすくて、ストーリー性があって、今でも読み継がれているんですね。
ところがはじめはなかなか売れなかったそうです。あるとき彼は名案を思いつきました。ロンドン中の新聞に結婚相手を求むという広告を打ったんです。その広告の文章は次のようなものでした。「私はスポーツと音楽を好み、教養を備え、温和にして若さ十分の億万長者です。私の望む結婚相手はずばり、サマセット・モームの最新刊の小説に登場するヒロインとそっくりな魅力的な女性であることです。
この広告の効果は絶大でした。いったいモームの小説に出てくる、究極の理想の女性とはどんな人なんだろうと、人々は書店に殺到し、彼の本は見る見るうちにベルトセラーになったというんです。モームはユーモアたっぷりの広告文を打って出たのは、一にも二にも、自分の作品に対する愛情です。この小説は読めば必ず読者を虜にするだけの魅力があると固く信じていたんですね。彼の作品への愛着が小説をベストセラーにする起爆剤となっていたのです。

神様はあなたを愛しておられる

ところで、聖書によれば、あなたをお造りになった創造主なる神様は、あなたを心から愛しておられるというのです。人は神に愛されるために神のかたちに似せて造られた、最高傑作である、と聖書は語るのです。ですから私たちは誰でも愛されたいという欲求を生まれながらにして持っているのです。
しかしよくよく私たちの愛情欲求を考えてみると、ただ愛されるだけではなく、愛されるにふさわしい人になりたいという欲求があるように思うのです。

ある社長、ある大学教授

ある会社で社長に大抜擢された人がいます。社長になったとき、何が変わりましたかと聞かれて、彼はこう答えました。「会社のみんなが自分の口にするジョークに大笑いするようになった。私が社長でなかったとき、私のジョークで笑う人は一人もいなかった。みんなスルーしていたものだ。ところが私がみんなのボスになるやいなや、部下たちは必至で私のジョークを笑うんだ。でも少しもうれしくないよ」って言うんですね。
ある大学教授は言いました。学年末の最後の試験を提出するとき、先生の講義はすごく楽しかったですと言って、そういうふうに高い評価をしてくれる学生が増えるっていうんです。ところが、採点が終わった時点でそのように言ってくれる学生は誰もいません。テストを提出したときには、ほめそやすのですが、採点が決まった後では見向きもしなくなるのはどうしたことでしょう。本当にその講義を楽しみにしていたかどうか、わかりませんね。

人間は愛を求める

人は形や言葉だけの愛情表現ではなく、本物の愛がほしいのです。そしてそのような本物の愛を受けるにふさわしい人間になりたいと誰もが望んでいるのではないでしょうか。またその一方で、人から憎まれることを恐れます。そしてそれだけではなく、憎まれて当然の人物になることを恐れているのです。
憎むべき存在になり果ててしまうことを恐れるんです。また人は褒められたいと願っています。しかしそれは、根拠のない褒め言葉ではなく、まさに称賛に値する人になりたいと願っています。たとい誰からも褒められることがなかったとしても、褒められてしかるべき存在になりたいと願っています。
またその一方で非難されたくないと恐れています。そして非難されないだけではなく、非難すべき人間になってしまうことを恐れています。非難されることがふさわしい人間になってしまうことを恐れているんですね。つまり人間は誰しも心の中に、かくあるべき理想像というものが据えられているように思うのです。愛されるべき、尊敬されるべき、評価されてしかるべき価値ある人間像が自分の心の深いところに焼きこまれているように思うのです。

なかなか理想どうりに生きられない

ところが実際の私たちは、この理想の自分になかなか到達できません。心の中ではきよく生きようと願ってはいるのですが、実際の生活では正反対の卑怯なことをついやってのけてしまうのではないでしょうか。
神のかたちに似せて理想像を焼きこまれていながら、同時にそこに至らせない罪の力に翻弄されている、それが人間の姿ではないでしょうか。いったいどのようにすれば、この内なる葛藤から逃れ出ることができるでしょう。
聖書はこのように語っています。

不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである

ここから二つのポイントで、幸いに至る道をお伝えいたしましょう。

罪があるという現実

第一に、人には自分自身には不法と罪があるという、この生々しい現実を認めるということです。
今の心理学では、自分を落ち込ませるような考えを退ける傾向があると思います。しかし本当の人間回復は、自らの非を認めるところから始まるのです。それがなかなかできないのは、自分の非を認めてしまったら、生きる土台を失ってしまうように思うからです。しかし実際には、自分という存在の不完全さ、いやらしさ、卑怯さを認めて受け入れることが、コンプレックスからの解放の第一歩なのです。

キリストは罪をおおってくださる

第二に、その自分の不法性や罪ややらしさのすべてを、キリストがおおい隠してくださるということを受け入れることなのです。
今から1600年ほど前、アウグスチヌスというクリスチャンがいました。彼は自分がキリストと出会う前の遍歴を「告白」という本の中に、正直に書いたのです。
この本の中には、本人が隠しておきたいと思うに違いない、実にみだらな、痛ましい、罪とただれた生活が赤裸々に描かれているのです。そしてその文章の中には、後悔と悲しみがにじみ出ています。振り返って、自分の人生の前半を見返してみると、ただただ恥しかない。そのような魂の叫びがここに書かれています。ちょうど食あたりを起こした人が、体の中から悪いものを全部吐き出してしまうように、自分を捕らえていた不道徳な事柄、ただれた生活を彼は洗いざらいに吐き出すんですね。
どうしてそんなことができるのでしょう。そんな自分を神が愛しているということを信じていたからです。そんな罪深い自分の罪をイエス・キリストが完全に覆ってくださったという事実を信じていたからです。どんなに深い罪、重い過去、恥ずべき自分であったとしても、そのままの自分を丸ごと愛し、赦し、受け入れてくださるキリストの赦しを信じていたからです。アウグスチヌスにとってかつての恥ずべき過去は、忘れ去るべきものというより、赦しを一層際立たせるためのものに変えられてしまいました。
このようにキリストを救い主とする人は、罪によって破壊された人生が再統合され、完結していくのです。あなたの人生に赦しを与え、意味を与え、価値を与える生ける救い主、この方こそがあなたの救い主です。どうぞイエス・キリストを信じ受け入れてください。心からおすすめしたいと思います。

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