新約聖書
「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」
(使徒20:21)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.863 2016年10月9日

「救いの両輪 悔い改めと信仰」

おはようございます、高原剛一郎です!

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先日、私は訪問先の教会で15年前に語ったメッセージをカセットテープで聞く機会がありました。聞いてみると、なかなか良いことを言ってるんですね。
気がつくと、メモまでとっていました。私は大変新鮮な思いでそのメッセージを聞くことができたのでした。
ところで、どうして新鮮なメッセージだと思ったんでしょう。自分の話したことを、すっかり忘れていたからです。
実は聖書のメッセージの準備は楽ではありません。何度も聖書を読み返し、祈りながら入念に入念に言葉を選んで準備するのです。それなのに15年たったとき、語った本人の記憶の中に内容が一つも残ってないのです。

正しいと言い切れる人はいない

私はどれだけたくさんのことを忘れて生きているんだろう、と思いました。
そしてこう考えたのです。たまに口にする良い言葉でもすっかり忘れてる。とするなら、この口が言ってきたたくさんの悪い言葉や、私がしてきたたくさんの失敗、そして、人を傷つけたことなどは、もっときれいに忘れているに違いない。
そしてどんなにひどいことをしても、それをきれいさっぱり忘れてしまうと、何か自分のことを、悪とは無関係に生きてきた聖人君子のように勘違いしてしまうかもしれません。
しかし、その勘違いが粉砕されるときがやって来るのです。それは、一人一人が神の前に立つときです。
人間でさえ、15年前の発言を記録する装置を作り出すことができるのです。ましてや、神は、人の一生のすべてを記録できる方なのです。
神様の前に、私は正しいといい切れる人は誰もいないんですね。しかし、神様は、この正しくありえない人間を救うために、イエス・キリストをこの世に遣わしてくださったのです。

永遠のいのちを受けるのに必要なこと

さて、聖書の中にこう書かれてあります。

ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。

私たちが罪ゆるされて、永遠のいのちを受けるためには、二つのことが必要だと主張されています。

悔い改めが必要

第一に、「神に対する悔い改め」です。
悔い改めというのはギリシヤ語では「メタノイア」と言います。「メタノイア」を逆から読むと、「愛のため」と読めますね。この「メタノイア」の意味は、「考えを変える」という意味なんです。自分中心の考え方で世界や世の中や人生を見るのではなく、神のために世界が造られ、神のために私が造られ、神のために万物が存在しているのだ、と考えを180度反転させることなのです。
この悔い改めが伴わないときは、本当には聖書のメッセージが分かったとは言えないのです。

石川啄木の生涯

先日、私は石川啄木の伝記を読んで衝撃を受けました。私は紛れもなく、石川啄木は天才文学者の一人だと思います。今でもそう思っています。
しかし、彼の生涯のあちこちには自分は天才なんだから優遇されて当然なんだという人生観が見え隠れしているのです。
啄木は、中学時代からの恋人と相思相愛で結婚します。しかし、この結婚式のために東京から故郷岩手に帰るのですが、その途中、仙台で電車を降りてしまうんです。そして、旅館で何泊もしてふらふら遊び歩きます。
その挙句に、宿代を払えず、友人の土井晩翠に借金の手紙を送るんですね。母が危篤で、故郷に戻る金が欲しいと、嘘をついた手紙です。お金を持って来た晩翠の妻は、啄木のいい加減さを叱りつけるんですね。当然のことです。
しかし彼は反省しません。彼女が行ってしまうと、そのまま仙台に十日間滞在して、結婚式はすっぽかし、さらに旅館代までも踏み倒すのです。花婿のいない結婚式を列席者の前で挙げなければならなかった花嫁は、どんなに寂しかったことでしょう。
ところで、啄木という人は生涯女遊びがやめられない人でした。啄木には釧路時代に小奴という芸者の愛人がいました。まだ結婚して五年しか経ってません。この芸者を彼は他の男に売り飛ばし、売った小奴からも餞別という名目で金を受け取り、一年後には小奴に電報で借金を申し込んでいます。
借金してはそれを遊興費に使い込み、生活に困ってはまた新たな人たちに借金を頼みます。それでいて妻に対しては、愛してるよ、と言い、友人に対しては、恩人だ、と語って、にっこり笑って手を握るのです。困ったときには必死にすがりつきますが、都合がつきますと相手に対する関心がぐっと消えるのです。
彼の生涯を知れば知るほど、こんな人を友だちに持ちたくないという気持ちがわいてきます。

自己中心主義を捨てる

しかし、実は人間は自分の造り主に対してこれと似たようなことをしているのではないでしょうか。
神様の作品である自然界の水や空気や太陽やエネルギーをただで使って生きていますが、それとて神に感謝するということは特にありません。困ったときには必死に懇願しますが、苦境を乗り越えると神への関心が消滅します。神を信じます、と口で言いながら、自己流に神以外のものを拝んだりします。
このような不誠実な態度の根底にあるのは、自己中心主義です。この自己中心を罪として憎んで捨てるという決意、これが悔い改めなのです。

イエスキリストを信じる

第二に必要なことは、あなたのために人となり、十字架にかかって身代わりに死んでくださった方、そして三日目に死を突き破って復活したイエス・キリストを信じることです。
キリストはあなたを救うために神が遣わされた救い主です。この方を自分の救い主として信じるのです。
今から71年前、太平洋戦争が終わりました。戦争末期、沖縄が激戦区となりましたね。その沖縄戦に米軍部隊の一員として日系人250人が参加したのでした。
多くの日系人はヨーロッパ戦線に回されましたが、250人だけは日本語の解読、通訳のために対日戦線に加えられたのです。
ところで、日系人の兵士たちの心境は複雑でした。というのは、日本は父の祖国であったからです。2世3世の彼らはアメリカで生まれ育ったのでアイデンティティは100パーセントアメリカ人です。しかし、父にとっては母国は日本なのです。この父の祖国と戦うんですね。
そしてそうすることによって自分たちがアメリカ人であることを証明しなければならなかったのです。実に複雑な話です。

無防備な姿となられた救い主

そんな日系人兵士の一人に、ツボタさんという方がいらっしゃいました。
彼は戦争に行くとき、父にこう言われたそうです。「殺すことだけが戦争じゃない。人の命を救う戦いもあるはずだ。君は命を救うために戦いに行きなさい」。
いったいどのようにすれば人の命を救う戦争をすることになるんだろう。そんなこと、不可能ではないかと思いながら、激戦の沖縄に入ったのです。
ところで、沖縄では多くの民間人が洞穴の中で集団で潜伏していました。降伏を呼び掛けても応じる人はほとんどいません。それどころか、集団自決が相次いだのです。米兵は鬼のような存在だと教え込まれていたからです。
しかしツボタさんは父の言った言葉が今こそなるときだと確信しました。彼はすべての武装を解き、上半身裸になって、無防備な状態で穴に降りて行ったのです。そして、幼い少女を見つけると日本語で声をかけました。「さあ、出ておいで。一緒に穴の暗闇を出て、生きるのです」。
応じた少女に続いて全員が救出されたのでした。
キリストは神のあり方を捨てて、無防備な人となってこの世に下り、あなたの救い主となられたのです。
どうぞ、このキリストを受け入れてください。心からおすすめしたいと思います。

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