新約聖書
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」
(1ヨハネ4:10)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.875 2017年1月1日

「なだめの供えものなるキリスト」

あけましておめでとうございます、高原剛一郎です!

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先日、私は『「バカの人」相手に感情的にならない本』という長いタイトルの本を読みました。
和田秀樹さんという精神科のお医者さんが書いた本です。随分どぎついタイトルだなと思いながら目を通しましたが、この本で言う馬鹿な人とは、IQとは全く関係がありません。男はつらいよの寅さんみたいな人のことを言うんです。
寅さんは日本全国を旅して、気が向いたら家族のところに戻って来ます。そして、必ずひと騒動起こしては、「馬鹿だねえ、寅は」とため息をつかれながら、またプイっと旅に出るのです。
寅さんは決して悪い人ではありません。それどころか、歳の割には実に純情で憎めません。ですが、すべて感情に任せて行動してしまうのです。
思ったことはすぐに顔に出る、言葉に出る、行動に出る、腹が立ったらちゃぶ台をひっくり返し、そして社長の家に怒鳴り込む。大切なことをその時の気分で決めてしまって、いつも失敗を繰り返してしまうのです。
この対極にある人が、頭の良い人です。これもIQは関係ありません。心理学では、頭の良さを決定づける一番大きな要素は、メタ認知力だというそうです。
メタというのは超えるという意味です。あるいは外から見るように客観視する能力のことをメタ認知力というそうです。

神は人をどう見られているか

実は、聖書は究極のメタ認知を語っています。それは、人間を造られた神の目に、人間がどのように映っているかを語っているからです。人間を出発点にして人間を語っている限り、人間の本当の姿は分かりません。
人間を天からご覧になる神の視点で人を見ていくとき、初めて人の持つ問題点と解決が見えてくるのです。
聖書にこう書いてあります。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

三つのポイントで、神様の視点をご紹介いたしましょう。

神の愛で人は喜べる

第一に、神は創造主としてあなたを愛しておられる、ということです。
なぜ、そう言えるんでしょう。私たちの身体の造りは、人生に喜びを感じる能力を与えられているからです。
たとえば、自然界を見てください。なんと冬の景色は美しいでしょう。冬になったら、リンゴや、柿や、ミカンが実りますが、冬の果物の色はみな暖色系、暖かい色なんですね。寒い時には暖かい色の実を実らせ、暑い時には涼しげなグリーン系の実がなるんですね。
それは、私たちがそれらを見て、楽しむためです。神は、この世界を灰色に造ることもできました。しかし、そうはなさらなかったのです。この世界に住み、生きる人を喜ばせようと設計してくださったんですね。
ところで、冬になると鍋が恋しくなりますね。出汁のきいた鍋を皆で囲むのは本当に楽しいです。
しかし、それらの食事が楽しみになるのは、それらの料理に味があるからです。もしこの世界にあるものが全て、味のない食物ばかりだったらどうでしょう。神様はすべての食べ物を味のないものに造ることもおできになりました。
しかし、そうはなさらなかったのです。食欲をそそる味というものをお造りになられました。そしてその味を楽しむ味覚という感覚を人間に授けてくださったのです。
喜びを感じながら人生を生きるようにしてくださったのは、なぜですか。あなたを愛しておられるからです。

罪の刈り取りが必ずある

第二に、こんなにも人生に喜ぶ能力や、良いものをギフトとして与えておられる神様を、人は離れ去ってしまったのです。
この神を無視して離れ去った生き方です。その生き方のことを聖書は罪と語るのです。ところが、そのように言われてみても、ピンとこないという人が案外多いんですね。他人事のようにしか思えない方もいらっしゃることでしょう。
ところで、どうして人は、罪がピンとこないのでしょう。その一つの理由は、罪を犯しても、その結果はすぐには来ないからだと思うのです。
先日、韓国で朴大統領の友人が逮捕されました。大統領とは十代の頃からの付き合いで、友だちの少ない大統領にとっては特別な存在でした。それで、大統領官邸にも顔パスで出入り自由の状態でした。
ただの友人であったら問題はなかったでしょう。しかし、彼女は大統領の個人的友人という立場をフルに活用し、様々な不正を行ってきたという嫌疑を受けているのです。
逮捕されたとき、彼女は自分を取り囲む報道陣に向かって、「死に値するほどの罪を犯しました」、と言ったのです。
大統領が就任したのは、今から約4年前、2013年2月25日に韓国史上初の女性大統領が誕生したのです。そして、その直後から大統領官邸に入り込んで行ったのです。
その当時、彼女は大統領への接近が、将来の自分を破滅に追いやるとは思ってもみなかったことでしょう。国家の最高権力者の後ろ盾のもとでは、どんな不正もとがめだてる人はいないと考えていたことでしょう。しかし、罪は必ず、それを犯した人に追いつくのです。
祝福の源である神を捨てるという罪の刈り取りは、今すぐには見当たらないかも知れません。しかし、罪には必ず刈り取りがあります。
人は蒔けば、必ずその刈り取りをすることになります。神を捨てるという罪の刈り取りは、死なのです。肉体的死だけではありません。死後に神の恵みから完全に切り離された世界に行くのです。これほど恐ろしいことはありません。

キリストの十字架による神の愛

しかし、第三に、神が私たちを愛し、私たちの罪をゆるすために、イエス・キリストをなだめのそなえものにしてくださったのです。
神は、私たちの罪をイエス・キリストに背負わせ、キリストを私たちの身代わりにしてさばいてくださったのです。
この「なだめ」という言葉は、ヘブライ語では、「ニーホアッハ」という言葉です。これは、「休息」を意味する言葉なんですね。人の罪を完全にゆるすだけの、完全なつぐないが果たされたがゆえに、神は納得して、罪のゆるしを与えて休まれる、そういう意味です。
このキリストの犠牲のゆえに、どんな罪も神の前には消し去られ、忘れていただくことができるというのです。そして、ここに神の愛があると聖書は語るのです。
私たちは人を愛するようになると、その人の問題を、自分の問題として考えるようになりますね。その人の計画を、自分の計画のように重大なものと考えるようになります。また、その人の不幸を、自分の不幸に感じ、その人の面倒な事件を、自分の事件として受け止めるようになります。
神は、あなたを愛してくださったがゆえに、あなたの問題をご自分の問題として受け止められたのです。そしてあなた本人が、それを問題としてとらえる遥か以前に、その問題の解決に動いてくださいました。あなたが生まれる2000年も前に、神はイエス・キリストの十字架においてあなたの全部の罪を処分し、キリストの復活によって、死を解決してくださったのです。
なぜそこまでしてくださったんでしょう。あなたを愛しておられるのです。もしあなたが神様の愛を打ち消そうとしても、それは無駄です。神様の愛を止めさせようとしても、全部失敗に終わります。神様にとことん嫌われることをして見せてやろうとしても、神様の愛を止めることはできません。なぜなら、神様の愛は、あなたの行ないと関係ないからです。
神があなたを愛するのは、神の本質が愛だからです。神はあなたを愛しておられるのです。だからこそ、どうぞ、この愛を踏みにじらないでいただきたいのです。
このイエス・キリストをご自分の救い主としてお迎えください。心からお勧めしたいと思います。

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