新約聖書
『 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。 』
(エペソ5:33)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.892 2017年4月30日

「聖書が語る夫婦」

おはようございます、尼川匡志です!

カット
昨年、ある方の結婚式で聖書メッセージを頼まれました。私は、冒頭でこのように話し始めたのです。
「厚生労働省の調べによりますと、現在結婚している夫婦の3組に1組が離婚するそうです。」
まあ、こういいますとその会場におられた方たちが、波を引くようにさーっと引かれるのが分かったのです。
それは当然と言えば当然です。結婚式で絶対ってはならない離婚という言葉を口にしたからですね。
結婚の披露宴では、司会の方は「披露宴を終わります」とは言いません。「お開きにします」というのです。それほど、分かれるとか切れるとか終わるとかという言葉には気を使います。
そんな中で、3組に1組が離婚すると言ったのですから、そうなるのも無理はありません。
もちろん、そのまま終わったのではなく、きっちり聖書の話をさせていただきました。

社会の最小単位、家族

さて、私たちの社会の最小単位は家族です。ですから、社会が健全に保たれるためには家族が健全である必要があります。
今私たちが生きている社会は、決して健全であるとは言えないと思います。その最小単位である、家族に問題があると言ってもいいかもしれません。
この家族は、夫婦と親子というふたつの関係で成立しています。そのうち、より基本的な関係が、夫婦なのです。夫婦が健全なら、親子も健全になります。
そして家族が健全になり、社会が健全になるのですね。どのような人間関係でもそれを築くことは、簡単ではありません。
しかし、その中で最も難しい関係がやはりこの夫婦という関係ではないかと思います。
なぜなら、それまで何十年もの間、環境も習慣も違う中で生まれ育ち生きてきた人間が、ある時を境にして小さな家や部屋に顔を突き合わせて生きていくのです。これは大変なことです。

夫婦関係の継続は簡単ではない

例えば、一日中はいていた靴下と布きんを一緒にに洗うかです。そんなの洗濯するでしょう、何が駄目なの?という人もあれば、そんなことはあり得ない、汚いと考える人もいる。また、バスタオルは一回であらうか2,3日使うか、風呂が先かご飯が先か、シャワーでいいのか湯船につかりたいのか、冷房はすぐにつけるかできるだけ我慢するか、食事中テレビをつけるかつけないか。
こういう小さな違いがお互いに少しずつ、ストレスとして蓄積していくのですね。そして、たいていは自分のしていることが常識で相手は非常識だと考えています。
それに加えて、男と女という分厚い壁があるのですね。男と女は、全く感性や思考方法が違っています。
もちろん個人差はありますが、男はどちらかと言えば結論を出したがる。女性は決して結論を急ぎません。むしろ、感情や過程を共有することを大切にします。ただ話を聞いてくれて、共感してくれればそれでいいと考えていることが結構多いというのですね。
しかし、男性はこのことに無頓着です。だから、親身になって妻の話を聞かなない。そして、溝が深まっていくということが多いのですね。男性と女性が出会って恋に落ち、結婚することはある意味で簡単です。しかし、その結婚した夫婦がその関係を継続することは、実は簡単ではないのです。まして、互いに愛を育み、愛し合いながら生きていくことはとても難しいことなのです。

聖書に解決が書かれている

では、不可能なのかというと、決してそうではありません。
私たち人間は、この世界に偶然誕生したわけではないのです。万物を創造された、神によってこの世界に生まれました。
そして、その神が私たち人間が本当に幸せに生きていくことができるように、プログラムを持っておられるのです。
それらのことが書かれているのが、実は聖書なのですね。
私たちは、聖書と聞くと宗教の書物だと考えます。人間を善人にするための教えが書かれているのだと考えます。
でもそうではありません。聖書の中には人間というものがどういう存在で、なぜ過ちを犯すのか、憎み合うのか、敵対してしまうのか、その原因がどこにあるのか、そしてそこからどのようにしたら抜け出すことができるのか、どのようにしたら愛し合って生きていくことが可能になるのか、それらのことが記されているのです。

聖書のが語る理想の夫婦の姿

夫婦について記されている有名な聖書の箇所があります。
そこをピックアップしながらお読みいたします。

妻たちよ、あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。 夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。

ここに、夫と妻がどのように生きればいいのかが書かれています。まず、妻は夫に従いなさい。そして、夫は妻を命がけで愛しなさい。結論的に言うならば、夫は自分を大切にするように、妻を愛し大切にしなさい。妻は夫を尊敬し従いなさい、ということです。

無条件に愛すことを求められている

いかがでしょうか。そんなこと無理に決まっているという声が聞こえてきそうです。奥さんにとっては、尊敬できるようなことをしてよ、またご主人からは、そんな憎たらしいことを言われたら100年の愛も覚めてしまう。
互いに言い分はあると思います。でも、聖書にはこのような夫には従いなさい、このような妻なら愛しなさいとは書いていないのです。
無条件で尊敬し、従い、無条件で命を懸けて愛しなさい。どんな夫でも、どんな妻でも関係なくです。
ここで重要になるのは、その言葉を信じその通り行ってみるかになるのです。
そのことが、私たちに求められていることなのですね。

信じ進むときに人生は変わる

聖書の中に、生まれつき目の見えない盲人の話が出てきます。その人が、イエスに出合ってこういわれるのです。
「行って、シロアムの池で洗いなさい。」
その人はその言葉通りに、今まで歩いたことのない道を苦労しながら歩いていきます。そして、シロアムの池で目を洗うのです。
すると、目が見えるようになったという記事です。
私たちは神によってつくられた存在です。その神が言われる言葉に従うなら、おのずと結果がついてくるのです。もちろん、その道は簡単ではないかもしれません。
もしあなたが、その道を進んでいこうとするなら、その言葉を語られた方を本当に信じ続ける必要が、まずあります。
そして、その通りにすれば、必ずあなたの人生は変わるのです。

神が与えられる人生のプラン

私は今日、夫婦のことでお話をさせていただきました。でも、今言った原則は私たちの人生すべてに言えることなのです。
あなたの人生に、もし解決できない問題があるとするなら、神は幸いな人生を与えるために、あなたのためにプログラムを設けているというのです。そして、そのプログラムと違う生き方をしているときに、問題はいつまでも残り続けるのですね。
聖書はそれを罪という言葉で表します。
神という方は、その間違っている人生からあなたを脱出させたいのです。あなたの人生を良いもので満たしたいのです。
あなたが主に信じ進まれることを心からお勧めします。

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