新約聖書
『 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」 』
(1コリ1:30)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.908 2017年8月20日

「生ける神の知恵キリスト」

おはようございます、高原剛一郎です!

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おはようございます、高原剛一郎です! 昔サウスウエスト航空というアメリカの会社がライバル会社のスティーブンス航空のCMコピーをうっかり使ってしまうというミスを犯しました。
スティーブンス航空はそれを訴え、サウスウエストのほうは業務中止命令を出されそうになります。会社としては命令に従うか、裁判に訴えるか、二つに一つしかありません。
しかし裁判に訴えても負ける確率の方がはるかに高かったのです。絶体絶命のピンチを迎えた時サウスウエストの名誉会長、ハーバード・ケレハーという人が立ち上がるのです。
彼はスティーブンス航空に、ある提案をしたのです。何とそれは腕相撲です。ケレハーは相手のスティーブンス航空の会長に広告の権利を賭けた腕相撲の勝負を挑んだのです。
このとんでもない提案を相手方も受けて立ったんですね。こうして正規の腕相撲の勝負はダラスのスタジアムを借り切って開催されました。
両社の社員は観客席で派手な応援をします。マスコミは大々的に取り上げ社会的にも注目を集めます。
さて、結果はケレハーの完敗でした。しかし、この腕相撲勝負は両方の会社にとってとてもいいCMになり、わだかまりも消え、そして法的手続きもなしに一件落着となったのです。
こういうのを知恵って言うんですね。なぜなら両方とも益を受け、見ている人々も楽しくなり、のちに和解のためのビジネスモデルの模範となってるからです。

キリストは神の知恵

さて聖書の中に「キリストは神の知恵となった」とあります。
なぜならキリストは神には栄光をお返しし、人には罪の赦しを与え、やがて世界を一新する土台をもたらされた方であるからです。
聖書はこう語っています。

しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

ここには神の具体的な知恵の表れとしてキリストがもたらしてくださる三つのものが紹介されています。

キリストは私たちの義

第一に、キリストは私たちの「義」となってくださったということです。
人は神の前に弁解の余地のない罪人です。人間同士の比較の中では善人も悪人もあることでしょう。
しかし聖なる神様の前にすべての人は罪人です。なぜなら神様は私たちのすべての過去、心の中の思いまでもご存知の方だからです。
しかし、神様はこの人の罪の償いをイエス・キリストにさせてくださいました。キリストは私たちの罪を負って代わりに罪の罰を受けてくださったために私たちは赦されるのです。いわば人はキリストの行いの故に何にもしてないのに罪赦されたものと見なされるのです。
先日、私のいる集会に3年間ブラジルの奥地で働いていた日本人のご家族がいらっしゃいました。アマゾンの奥地にあるある都市で日本人学校の教師をなさっていたのです。
「そんなところではさぞご苦労があったことでしょう」と言うと「いや、とても過ごしやすかった」とおっしゃるのです。
実は現地についてしばらくすると、何度も何度も聞かれたことがあったと言うんですね。それは「あなたは何人ですか。どこの国から来た人ですか。」それで「日本人だ」と言うと皆例外なく良くしてくれた、とても信用してくれたと言うのです。
実はブラジルでは「ジャポネーズ ガランチーノ」という言葉があるそうです。「日本人は信用できる人たちだ、勤勉で、忠実で、ごまかしたりしない人たちである」という意味の言葉です。
日本人にもピンからキリまでいろいろあると思いますが、ただ日本人というだけで絶大な信用を持たれたんですね。それはブラジルに渡った日系移民たちの積み上げてきた信用に則ったものです。
ブラジルに渡って来た日本人に悪い人はなく皆実に立派だった、というその父祖たちの実績が後にやってきた自分たちを守ってくれているのです。いわば父祖の高潔なる行為が自分たちに遺産となって転がり込んでるんですね。
私たちが神様から正しいと見なされるために私たちは何にもできませんでした。しかし、私たちに代わってキリストが十字架で死んでくださったのです。
あの命を捨てた高潔なる自己犠牲の償いによって自分では何もできなかった罪人が義とみなされたのです。

キリストは信じる人のきよめ

第二に、キリストは信じる人々の「聖め」となられました。
これはキリストを信じた人はただ罪赦されるだけではなくキリストの人格に似せられていく、キリストのような人間性に変えられ、成長していくという約束です。
もちろんこの変化はすぐには起こりません。キリストに従い、キリストと交わり、キリストと共に歩み続けて行く中で内側から人柄が変えられて行くのです。
ところで竹の種子が地上から目を出すにはとても長い年月がかかると言われています。最初の4年間は目に見える成長が無いのです。
しかし、5年目になると地上から小さな芽が出ます。するとたった6週間で30メートルにまで伸びるのです。
専門家によると竹は最初の4年間で地下茎を張り巡らせ、それを土台にしてわずか6週間で高さ30メートルの頑丈な竹になるというのです。
ではここで考えてみましょう。岳が30メートル延びるのに要した期間は4年でしょうか。あるいは6週間でしょうか。
人がキリストのように変わるのも時間がかかるのです。しかし、まず種がまかれなければなりません。この変化はキリストを救い主として心に受け入れた人にのみ起こることです。
キリストを救い主として信じないままで、キリストを人生のお手本にして見習おうとすることはとてもしんどいことです。出来ないことをやろうとすることになるからです。まず第一歩として必要なものは、キリストを救い主として受け入れ、キリストに変えていただくということなのです。

キリストは私たちの贖い

第三に、キリストは私たちの「贖い」となってくださるということです。
ここで言う「贖い」とはこの肉体が二度と死ぬことがない体に変えられるという意味です。この体が老いることも、傷つくことも、やむこともないものに変えられるということです。
それは復活の体になることです。これを肉体の「贖い」と言うのです。
先月100才を越えた現役ドクターとして知られる日野原重明さんが亡くなられました。105才です。100才を超えてもすこぶる元気で、丈夫で、全国から講演依頼が殺到し、何と120才まで公演予定が入っていたと言われています。
しかし、人はいつまでも生き続けることは出来ません。このラジオを聞いておられるあなたは今から100年後生きている可能性は0%だと思います。人は100%の確率で死にます。
しかし、キリストに罪を取り除いていただいた人は、たとえ死んでも魂は天国に行きます。そして、その台地に埋葬された肉体は朽ちてゆかない体にやがてよみがえるのです。
それはキリストが再び空中まで来られるときに起こる変化です。その瞬間一瞬にしてすべてのクリスチャンは空中にまで引っ張り上げられて栄光の体に変えられてしまうのです。この肉体の栄光ある変化を肉体の「贖い」と言うのです。
英語で絶望のことを「ディスペア」と言います。「ディ」というのは「なくす」とか「離れる」とかいう意味です。「スペア」と言うのは「希望」という意味なんですね。
絶望とは希望から離れることです。どんなに絶望的な人にもキリストは希望を与える救い主です。なぜならキリストこそあなたの義となり、聖めとなり、贖いとなってくださる方だからです。
どうぞこのキリストをご自分の救い主として信じてください。心からお勧めしたいと思います。

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