新約聖書
 罪からくる報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は私たちの主キリストイエスにある永遠の命です。
(ローマ6:23)

Default Text

「聖書と福音」高原剛一郎

No.763 2014年11月9日

「対神関係の罪とは」

おはようございます、高原剛一郎です!

カット
 先日、明治時代の物理学者寺田寅彦さんの特集記事を読みました。そこに彼の名言がいくつか紹介されていました。その中に、健康な人には病気になる心配があるが、病人には回復するという楽しみがあると書いてありました。それを読んで私は思いました。罪人には赦されるという喜びがある。今日はこのキリストによる救いを紹介している御言葉をまず読んでみましょう。

  「罪からくる報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は私たちの主キリストイエスにある永遠の命です。」

 ここから、三つのポイントでお話しいたします。

見慣れることの残念さ

 第一に、聖書の語る神は天地万物を造られた創造主であるという事です。今から数年前私は韓国の珍島という島に行きました。珍しい島と書いて珍島っていうんですね。ここは、毎日一回とっても不思議な自然現象が起こるんです。なんと海が二つに割れて陸地と沖合にある島が一本の道でつながってしまうんです。まるで紅海を渡ったモーセたちのようです。道が海から姿を表すとみんな一斉にその道を通って島まで行くのですが、まあみんな興奮して大騒ぎなのです。ところがこの現象を目の前にしながら、見向きもしない人たちがいるんですね。それは観光客を目当てに開業している。お土産屋さんたちなんです。彼らにしてみたら毎日見ている光景なので何の新鮮味も驚きもありません。
 私はそれを見て思いました。どんなに素晴らしい光景も見慣れてしまったら何の不思議も感じなくなるんだな。私たちは朝起きると大抵空は青いですね。しかし、青空が十年に一回しか見られないとしたら、一回の青空にどんなに歓声を上げることでしょう。もし月が百年に一回しか見る事ができず、星空が千年に一回しか現れないという事であるなら、それに遭遇出来た人たちはどんなに宇宙や自然界の不思議を畏敬の念を持って見ることでしょう。

あなたの魂の親がおられる

 今年の一月、評論家の森本哲郎さんが亡くなられました。この方はサハラ砂漠を旅して旅行記を書かれました。彼は見渡す限りの砂の大地と突き抜けるような空を見上げた時、魂の底から湧きおこるその思いを抑えきれずに絶叫してこう言うんですね。どうして自分は人間なのか、なぜ地球があるのか、なぜ宇宙はこんな姿で存在しているのか、いったい彼に何が起こったんでしょう。大自然の雄大なる姿を目の当たりにした時、何かに心打たれたんです。大自然の凄さに感動してそれをそのような姿にあらしめている何者かに叫んでいるのですが、その何者かが誰かかが分からないというもどかしさが絶叫となっているんですね。その何者かをご紹介いたしましょう。創造主なる神なんです。私たち人間を生かす環境にこの宇宙をこの姿に設計した方です。この神様こそはあなたの魂の親なんです。

聖書が語る罪とは

 第二に、罪からくる報酬は死であるという事です。そして罪とはいったいどういう事でしょうか。この偉大なる創造主から離れて生きる事を罪っていうんですね。神から離れた生き方には三つのパターンがあります。
 第一のパターンは神なんかないという考え無神論の考えに立って生きる事です。これは神に対しては恩知らずという意味で罪なんですね。そして人はこの神を見失った結果、人生に対する恐れをも失い、結果として人生をあるいはこの世の中を生き辛いものにしてしまったのではないでしょうか。ところで大阪府警はこの十月から交番勤務の警官が制服姿でコンビニに入って買い物をすることを認めるようになりました。今まではさぼりと誤解される恐れがあったので制服の上からジャンバーを羽織るように指導していたんです。それが制服のままで休憩時間に買い物することが認められるようになったのは何故でしょう。犯罪抑止が期待できるからなんです。警官が店内に出入りしていると強盗達もおいそれと手が出せなくなるんですね。自分たちを逮捕して裁く権威があることで恐れを感じこの恐れが犯罪を抑え込むことになるこのように期待されているのです。逆に言うならなぜコンビニ強盗が頻発したんでしょう。恐れるべきものが目に入らないからです。恐るべき方を持つ社会は安定します。

神以外のものを神とする愚かさ

 第二のパターンは神ならぬものを神とするという考えです。これを聖書は偶像崇拝と言います。これは神に対する背信行為という意味で罪なんです。なぜなら聖書は唯一の本物の神以外の者を拝むことを罪として糾弾しているからです。まあ日本人の我々には随分窮屈な狭い考えのように感じる事でしょう。しかし、決してそうではないのです。私は先日友人の結婚式に招かれました。式のクライマックスは誓約です。新郎新婦に司式者が全く同じことを尋ねます。それは、生涯この人を自分の伴侶として貞操を誓いますかという事です。夫に対して彼女だけを妻として愛しなさいと約束させることは堅苦しい考えでしょうか。妻に対して彼だけを夫として愛しなさいというその誓いを聞くのは窮屈な事でしょうか。決してそうではありません。互いに絶対的忠誠を求められるのは互いの関係が人格的関係であるからです。そして人格的関係の基礎は愛と誠実にあるのですね。あなたの造り主は人格ある神なのです。したがってあなたから愛と忠誠を求める神なのです。

人生の根本問題に向き合う

 第三のパターンは神ときちんと向きあわない態度です。CSルイスという作家は幼いころから虫歯に悩む人でした。少年時代彼は歯が痛むときには母親の所に行けばよいと知っていました。お母さんは痛み止めの薬を口の中に入れてくれたからです。しかし、ルイスはお母さんの所になかなか行こうとせず、ぎりぎりまで我慢していました。なぜでしょう。お母さんは次の日、歯医者まで引っ張っていくという事が分かっていたからです。ルイスは当面の痛みを押さえてくれることは喜びましたが根本的な治療は苦手で嫌だったのです。多くの人は困った時だけ神に願います。テストの前、病気の時、大仕事の直前、神に力を求めるのです。そしてそれが終わってしまうとスーッと神を忘れていくのです。目の前の問題解決で済まそうとするんですね。しかし、人生の根本問題には手を付けようとしないのです。人生の根本問題とは死と死後の裁きから救われるという事なのです。

神が用意された救い

 第三のポイントはこの救いに関する神の宣言と呼びかけです。神は救い主イエスキリストの死と復活によってあなたのすべての罪の刑罰を終わらせてくださったのです。どうぞこの神の下さる賜物イエスキリストをご自分の救い主として信じ受け入れて下さい。心からお勧めしたいと思ます。

コーヒーカップ
時計
MILANの消しゴム