新約聖書
 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。
(1テモテ2:5,6)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.764 2014年11月16日

「唯一の神、唯一の救い主」

おはようございます、高原剛一郎です!

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 昨年、日本で一番売れた本は、「医者に殺されない47の心得」という本でした。そして、今のところ今年一番売れてる本は、「長生きしたけりゃ、ふくらはぎをもみなさい」という本なんです。どちらも健康のための実用書なんですね。だれもが元気で長生きしたいと願っているんですね。しかし、日本のベストセラーの中で2年連続トップになるといった本は、今までのところないのです。どんなによく売れた本も、次の年には忘れられていくんです。しかし、聖書は、毎年、毎年、毎年世界中で5億冊以上売れている別格、破格のスーパーベストセラーです。そしてそのテーマは、長生きではなく「永遠のいのち」です。人は長く生きても最後は死にます。しかし、聖書はこの死の解決について語る神のことばなのです。

 聖書に次のように書いてあります。

  「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」

 ここに人が健康的に生き、且つ永遠のいのちに至る情報が3つのポイントで語られています。

神は唯一であるという真理

 第一に、神は唯一であるという真理ですね。日本には266,000もの神々があると言われています。しかもその数は年々増えているのです。というのは次から次へと新しい神々が作られているからです。
 先日私は、長野県の飯田市というところに行きました。ここには全国でも珍しい貧乏神神社というのがあるんです。ご神体の木を貧乏という棒で3回殴り、さらに3回蹴りを入れ、そしてご神木の後ろにある的に向かって、豆をぶつけて貧乏神に焼きを入れるという神社なんですね。一体いつからある神社でしょう。1998年に作られたものだそうです。一体誰が作ったんでしょう。神主が作ったんです。そしてここに日本の神々の特徴がよーく出ていると思います。つまり人間が作った神々を、神と呼んでいるのです。しかし、聖書が語る神は、人間が作った神ではなく、人間をお造りになった神、あなたの造り主、万物の第一原因者、世界の作者のことなのです。この自然界を作られた設計者を聖書は神をお呼びしています。そして、この神だけが人の礼拝を受けるべき方なのです。人がこの創造者を唯一の神として生きるとき、多くの思い煩いから解放されていくのですね。人間の心配や気苦労、思い煩いは神以外のものを神のように考えて、依存することから起こっているからです。

内村鑑三というクリスチャン

 私の尊敬する内村鑑三というクリスチャンは、「弟子を持つ不幸」というエッセイを残しています。彼が言うには、「自分は今まで一度も私の弟子になりなさいと人を招いたことはない。ところが多くの人が、勝手に私を先生と呼んでやってきた。そこで私は彼らに忠告して言った。私はみなさんの友人であって、先生ではありません。私の宗教では、先生はただ一人、キリストだけです。私たちはみな互いに兄弟姉妹です。」ところが彼のこの忠告は、十中八九踏みにじられる結果になるのです。実は内村のことを先生と呼んで崇拝してきた人ほど、最後はひどく内村に立腹し、けんか別れで去って行ったからです。どうして内村に腹を立てるようになったのでしょう。初めに内村のことを極度に理想化してしまったからです。しかもその理想像というのは、あくまでも彼ら自身が勝手にイメージする理想像なのです。それで理想像に合致していないと「先生、あなたはこう信ずるべきだ。こう語るべきだ。このように行動すべきだ。」と文句を言うのです。内村が自分の思い通りにならないと言うことが分かると、裏切られたとか、失望したとか言って、去って行ったんですね。この怒りは一体何に由来するのでしょう。内村を偶像化したことが原因ではありませんか。神ではない内村を神でもあるかのように期待し、依存したので、ダメージを受けたんです。しかし、内村も良い迷惑だったと思います。

神は唯一という真理

 多くの人間関係で、傷ついたとか、傷つけられたとか言うのはなぜでしょう。それなりの理由は勿論あることでしょう。しかしその相手を権威ある神のように、崇拝していたことがダメージの大きな理由ではないでしょうか。もし私たちが、唯一の神だけを唯一の神とするなら、その瞬間に人生はシンプルになります。自然はただの自然になり、お守りはただの袋になり、お地蔵さんはただの石になり、そして人間は、ただの人になるからです。ではどうすれば神でもないものを、神のように扱うことから解放されるんでしょう。神は唯一であって、それ以外は被造物に過ぎないという真理に立つことなのです。

神と人との仲介者イエス・キリスト

 第二に、キリストを神と人との仲介者として受け入れることです。内村鑑三の娘ルツ子が不治の病に罹ったとき、内村は笹尾鉄三郎というクリスチャンに、娘の信仰の指導を依頼します。内村が日本人の伝道者の中で一目置いた数少ない人物です。この笹尾は全国を伝道旅行に飛び回りましたが、旅先で幼い娘が書いたハガキがよく届いたそうです。それはおみやげをねだるハガキでした。ところがまだ読み書きも充分ではなかったために、落書きにしか見えないのです。しかし、他の人には読解不能のこのハガキの文字を笹尾はいつも読み違えることなく、娘のリクエストしたとおりのものを買って帰りました。なぜそんなことができたのでしょう。奥さんがハガキの余白に娘の言っていることを書き添えてくれていたからです。彼の妻は幼い娘の分かりづらいメッセージを心に響く文言に変えていたのです。
 それと同じように、キリストは罪人たちの支離滅裂な心の叫びを神の心を揺さぶるメッセージになるように変え、とりなしていって下さっているのです。

購いの代価となって下さったキリスト

 第三にキリストは、私たちの購いの代価となって下さったと信ずることなのです。購いとは一体どういう意味でしょう。買い戻すという意味なのです。
 先日お母さんの形見のバッグが盗まれて、途方に暮れていた女性の投書を読みました。高級ブランド品であったそのバッグは、意外なところで見つかったのです。なんと、とある町の質屋さんで質流れ品として売られていたというんですね。こういう場合どうなるんでしょう。実は法律によって古物商が買い受けたものが盗難品であった場合、無料で返却に応じなければならないんです。但し、盗難してから1年以上経っている場合は、返却しなくても良いそうです。1年以上経った段階で盗まれた人が、どうしても返して欲しければ代価を払って買い戻す以外にはないのです。この行為を購いと言うのです。

罪の赦しと永遠のいのち

 キリストは死と悪魔の手に捕らえられているあなたを買い戻すために、あの十字架の上で、ご自分のいのちを投げ出して下さいました。そして死んで3日目に復活して、あたなのための救い主となって下さった方です。この方を信ずるものは、誰もがすべての罪赦され、永遠のいのちを頂くことが出来るのです。どうぞこのイエス・キリストを信じて下さい。心からお勧めしたいと思います。

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