新約聖書
 死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。…しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
(Ⅱコリント15:55,57)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.765 2014年11月23日

「罪との戦い、そして勝利」

おはようございます、那須清志です!

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 時は今から430年ほど前、中国地方で絶大な力を持つ毛利軍と全国統一を目論む織田信長軍は、にらみ合っていました。そのクライマックスは、今の岡山県にある備中高松城をめぐる戦いでした。沼地の真ん中に建てられていたこの城は守りやすく、攻めにくいものでした。信長軍の実行部隊のトップは羽柴秀吉。攻めあぐねていた彼に、知恵を与えたのがご存じ黒田官兵衛です。その攻め方は奇想天外で、人口の堤防を作り、川の水を引いて、城ごと水で覆ってしまうというものでした。世に言う「備中高松城・水攻め」です。どんなところなのか一度行ってみたいなあ、と思っていましたが、先日その機会が与えられました。川の水をせき止めるため、農民たちを破格の金で駆り出し、高さ約8m、長さ約4kmというとてつもない大きい堤防を12日間で仕上げたと言われています。400年以上も前のことですが、今でも堤防の一部をほんのわずか見ることができます。地面を掘り返すと24mに渡る土俵の跡が発見されたそうで、歴史的な裏づけも取れたんですね。戦国時代の頃の様子を思い描きながら、ある集会でこの話をしていました。備中高松城の殿様は清水宗治と言います。会場に岡山在住の清水さんがおられたので、冗談半分に「岡山出身で名前も一緒だから、先祖は殿さまと関係あったりして…」と言うと、即座に、真剣に「私の先祖は当時清水の殿さまのもとで戦っていました」とさらっと言われたのでびっくりしました。身近な日本の歴史なんだなあ、と感心したものです。

聖書は神話や伝説ではない

 さて、この番組でいつも取り上げている聖書は、神話や伝説の寄せ集めではありません。実際に起きた歴史的事件や出来事の記録であり、その中で語られる創造主なる神のメッセージが綴られています。ただ、日本の歴史と比べると時間のスケールは桁違いなんです。イエス・キリストの時代でも今から2000年前です。日本の戦国時代より5倍近く昔のことで、当時の日本の様子はほとんど知られていません。日本で最も古い書物は古事記で、今から1300年ほど前に書かれましたが、聖書の最も古いところは3500年前に書かれています。そんなにも古いものですが、聖書の舞台となった中東に行くと、聖書に記された場所や出来事にまつわるものをたくさん見つけることができます。現代考古学の成果ですが、木の文化である日本に比べ、後に残りやすい石の文化であることもその理由の一つになんですね。

罪との戦い

 聖書の中にもいろいろな戦いが書かれていますが、実は最も重要な戦いは目に見えるものではなく、私たちの魂に関わるものだと言います。人間の内にある「罪との戦い」です。神から離れ、霊的に死んだものとなった人間は、このままいけば誰もが自分の罪の中で滅んでしまう、と聖書は警告しています。この罪と罪がもたらす死の縄目から人間を解き放つために、神は救い主を送ってくださいました。それがイエス・キリストです。イエスが「罪との戦い」の先陣をきってくださったのです。聖書に次のようにあります。

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。…しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」

イエスは人間の身代わりになられた

 イエスはどのように勝利を勝ち取ったのでしょうか。先ほどの「備中高松城」の話から考えていきましょう。水攻めという奇抜な策略を前に、城の状況は極めて厳しいものになりました。最終的に和議を結ぶことにしたのです。城下5000人の部下の命を救い、解放してもらう代わりに、城主清水宗治の命を差し出すというものでした。その条件は受け入れられ、秀吉から送られた酒と肴で最後の宴を開きました。装束を整え、突然できた湖に船を漕ぎだし、辞世の句を残し、切腹したのです。この殿さまの犠牲のお陰で、城下5000人の命は救われました。先ほどの清水さんの先祖もそのうちの一人だったようです。もし、一人残らず死ぬまで戦うぞ、という無謀な殿さまだったら、彼は今この地上にいなかったかもしれません。不思議な感じですね。
 さて、イエスの場合はどうだったでしょう。イエスご自身が、人間の罪を背負い、身代わりに十字架の上で裁かれるという方法を神はとられました。これこそ、奇想天外、思いもよらなかった方法です。ただし、突然で沸いてきた方法ではありません。事前にこの不思議な計画は旧約聖書の中で詳細に語られ、預言という形で紹介され続けてきたのです。  罪は裁かれなければならないという神の正義の要求と、罪を赦し裁きから救いたいという神の愛の要求は、十字架の上で両方とも完全に満たされました。イエスは、宗治のように人々から惜しまれながら、感謝されながら十字架に向かわれたのではありません。人に妬まれ、憎まれ、嘲られつつ十字架の恥を忍ばれました。すぐ死ぬことさえ許されず、想像を絶する苦しみを味わわれたのです。人間の罪はイエスを前に頂点に達しましたが、神の愛も頂点に達し、ぶつけられた人間の罪をイエスはすべて身に引き受けて受けてくださったのです。

イエスは世界中に影響を与えた

「武士としての名前を高松の苔に残して」という意味の辞世の句どおりに、清水の殿さまの名前は今も残り、墓も残っています。ところがイエスの死後は全く様子が異なります。イエスの墓は存在しますが、中はからっぽです。死後三日たってから、新しいいのちを得て復活されたからです。これが聖書が伝える驚くべき事件であり事実です。それ以降の歴史は、イエスの復活を裏付けています。また、名を残したという程度のものではなく、人の生き方を変え、社会を変え、国家に至るまで世界中に大きな影響を与えてきたのです。

魂の救いという永遠の勝利

 明治から昭和にかけて生きた大賀一郎というクリスチャンは、ハス博士と呼ばれています。2000年前のハスの種を発芽させ、花を咲かせることに成功したからです。彼は種に備えられた芽を出す力が再び働くように工夫したんですね。そのハスの子孫は今も「大賀ハス」としていろいろな所で見ることができます。
 イエスは本来罪のないお方で、死と無関係でした。しかし、人間の罪を背負われたために特別な死を経験されました。息を吹き返す可能性が全くない死後三日目という時に、神は特別な力を働かせ、新しいいのちをもってイエスを復活させました。このイエスを信頼するとき、私たちの内に新しい命が芽生えるように神は工夫してくださったのです。イエスを信じるとき、肉体は死を迎えても、魂は新しいいのちをもって神の前に復活する約束を得るのです。一時的な肉体の癒しという勝利ではなく、魂の救いという永遠の勝利です。その勝利を頂いたクリスチャンたちが時代を越えて、世界中に広がっているのです。
 みなさんも、主イエス・キリストを信じ、復活の希望を持って、勝利ある人生を歩み始められませんか。心からお勧めしたいと思います。

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