旧約聖書
 人の望むものは、人の変わらぬ愛である。
(箴言19:22)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.773 2015年1月18日

「人を満たして余りある神」

おはようございます、高原剛一郎です!

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 『世界がもし100人の村だったら』という絵本があります。世界70億人を100人に換算して考えようという本です。それによると村に住む人々100人のうち20人は栄養が十分ではなく、1人は死にそうなほどです。でも15人は太りすぎです。75人は食べ物の蓄えがあり、雨露をしのぐ場所があります。でもあとの25人はそうではありません。17人はきれいで安全な水を飲めません。銀行に預金があり、財布にお金があり、家のどこかに小銭が転がっている人は一番豊かな8人のうちの1人です。村人のうち1人が大学の教育を受け、2人がコンピューターを持っています。けれど14人は文字が読めません。
 恐らくこのラジオを聞いてくださっているあなたには銀行に口座があり、財布にはお金があり、机の引き出しのどこかに小銭が転がってるんじゃないでしょうか。そしてほとんどの人がパソコンかスマートフォンをお持ちではありませんか。そして、多くの人々が夜露をしのげる家の中でこの放送を聞いてくださっているのではないでしょうか。日本は世界で5本の指に入るほどの裕福な国なんです。しかし、裕福な国の中に生きてる割りには幸せそうな顔をしてる人より、疲れた顔をしてる人の方が多いような気がするんです。

動物との交流がもたらしたもの

 先日、ある本にこんな記事が紹介されていました。中米のコスタリカという国の話です。そこにジウベルト・シーダンという漁師がいました。彼はいつものようにパリスミナ川というカリブ海に流れ込む川に漁に行くと、一匹のワニが横たわっているのを発見するのです。そのワニは左目を銃で撃たれ瀕死の状態でした。もう何日も食べてないのでガリガリに痩せてます。3メートル近いのに体重が68キロしかなかったそうです。
 シーダンさんは何を思ったか、かわいそうに思って、何とこのワニを自宅に連れ帰り、看病を始めるんですね。しかもワニの隣で添い寝しながらの看病です。このワニを「ポチョ」と名付けると、ニワトリなど餌にして食べさせてやり、体力を回復させ、傷口に薬を塗り、つきっきりでケアをしたのです。驚異的な生命力でポチョは元気になったので彼はもといた川にこのワニを逃がしてやったのです。
 それからしばらくたって、またパリスミナ川に漁に出ました。すると一匹の大きなワニがじーっとシーダンさんを見つめてるではありませんか。やがてこのワニはのそのそとシーダンさんの所にやって来ると、じっと目を閉じて寄り添うようにし、親愛の情を示したのです。それは5メートルに成長したポチョでした。シーダンさんが帰ろうとするとポチョはついて来るんです。追い返しても追い返してもついて来るんですね。
 それでとうとうシーダンさんはこのワニを自宅近くの池で飼うことにしたんです。ワニのポチョは全面的にシーダンさんを信頼し、不審なものが近づくと彼の家を守る番ワニになったのです。やがてシーダンとポチョはワニと人間のショーを見せるようになり、海外からも観光客が殺到するようになったんです。先日このワニが老衰で死んだとき、悲嘆にくれるシーダンさんを慰めるため、地元の教会でワニのお葬式を挙げたんだそうです。

神を無視している人間

 ところでこのワニと人間の友情物語は動物学者や脳科学者たちにとって大変興味深いものとなったのです。と言うのはワニに代表される爬虫類の脳には情操を司る部分がほとんどないと言われているんです。本能だけで生きている生き物だと考えられているんです。脳の構造上、感情や愛情を認知する部分が小さくって、ほとんどが大脳きかく部という、快と不快以外は感知しない生き物だと思われていたんです。ところがこのワニがですよ、このワニでさえも情愛豊かな人格から看病され、九死に一生を得た時、恩に報いるという行動に出たと言うのです。野生のワニですら愛による心の交流をしてしまうと、それに最大の快を感じて友情を尽くすように変わったというのです。
 それなのに人間は自分に良くしてくださる神を無視して生きてるというのは、なんだかワニ以下の生き方のようにも思うのです。人間がどんなに物質的に豊かになっても心がすさんだままになってるのは、人間を造り、人間を生かし、日々良くしてくださっている神を見失って、この神という完全に円満な人格者との交わりが途絶えてしまってるからではないでしょうか。
 聖書の中にこう書いてあります。

「人の望むものは、人の変わらぬ愛である。」

完全な愛を持つ神を知る

 人間の心が望んでやまないもの、それは第一に変わらない愛です。
 変わってしまう愛は人の心を満たすことできません。最近またアダルトチルドレンという言葉をよく耳にするようになりました。これは子供じみた大人という意味ではありません。幼少期にちょっとしたことで怒りが爆発しやすい、そんな親に育てられた子供たちは、親から捨てられないようにするために無理して大人のように振る舞うのですが、それは健全な成長によるものではなく恐れによる振る舞いなのです。
 クリントン元大統領は自伝の中で自分がアダルトチルドレンだったということを告白しています。彼はいつも相手に必要とされたいという思いだけが募り、自分を必要としてくれる相手をどうしても失いたくないために、相手に執着しては失敗するということを繰り返してきたと言うんです。どうしてそんなことになったんでしょう。ころころ変わる愛しか経験してこなかったからです。変わる愛はむしろ人を傷つける愛です。そして、変わってしまう理由はその愛が相手のために相手を愛する愛なのではなく、自分のために相手を愛する愛だからです。そして完全に変わらない愛を持っている人は実はこの世の中にはいないんです。そんな愛は神しか持っていないんですね。

イエスの真実な愛

 第二に、人が望むものは人の愛だということです。人の形によってまた人の行動によって現された愛と言っても良いでしょう。しかし、現実には人にはそんな愛はないのです。そこで神は完全なる愛を人となって現してくださいました。この人となられた神こそはイエス・キリストです。キリストはあなたを愛するあまり、あの十字架に架かって命を投げ出し、あなたの身代わりに罪の刑罰を受けてくださった方です。そして墓に葬られて後、三日目に死を打ち破って復活された方なんです。すなわち、今も生きている方なのです。今生きてこのメッセージによってあなたの心に触れている神、それがイエス・キリストです。
 どうぞあなたもご自分の救い主としてイエス・キリストを心に迎え入れ、神と共に歩む人生の中に入ってください。心からお勧めしたいと思います。

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